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ラロック証言のいまー「核なき世界」へ(佐藤 信行)2009年8月

 あれからもう35年にもなる。ことしの夏は、私があの時、米議会の公聴会記録のなかでたまたま遭遇した「ラロック証言」に端を発す日米間の核密約問題と、日本の国是である「非核3原則」のうちの「持ち込ませず」の有名無実化が改めてマスコミを賑わせ、政界を揺さぶった。というのも、かつて外務省官僚のトップだった村田良平元事務次官が、核積載艦船の日本領海通過、寄港は改定安保条約で必要とされる核持ち込みの事前協議の対象外とする、との核密約の存在を元外務省首脳として初めて確認し、これを否定する政府見解はあえなく崩れ去ったからである。

  ジーン・ラロック元海軍少将は当時、既に海軍を退役し、国防問題に関するシンクタンク「国防情報センター」の所長を務めていて、上下両院合同原子力委員会の軍事応用分科委員会(スチュアート・サイミントン委員長)が開いた、核拡散の危険をめぐる公聴会で証人として発言したのだった。日米核密約への突破口を開くことになったその証言とは……・。

 「……私の経験によれば、核兵器を積み込める艦船はいずれも核兵器を積み込んでいる。これらの艦船は日本やその他の国々の港に入るに当たって、核兵器を降ろすことはない。核兵器を積み込める場合には、艦船がオーバーホールないし大規模な修理を受けるための寄港の場合を除いて、通常はいつでもこれらの核兵器を艦船内に積み込んだままである。
  これらの核兵器の一つをうっかり使ってしまうかもしれないという現実の危険性がある」

 この一節にぶち当たったときの全身が震えるような驚きと興奮はいまでも脳裏によみがえる。
 
 証言したラロック元提督は27歳で軽駆逐艦を率いて以来31年間、ほとんど間断なく各種艦艇を指揮し、最後に艦長を務めたのは太平洋の誘導ミサイル巡洋艦プロビデンスだった。その後陸上勤務では、海軍作戦部長と統合参謀本部付で、戦略計画にも携った。その彼がこうした自らの経験に基づいて、核兵器積載艦船が日本などの領海を通過したり、寄港したりする場合に、核兵器を取り外すことはないと断言したのである。
 
 この証言について、国務省スポークスマンは「どこに核兵器があるかないかについて、いっさい肯定も否定もしないというのがわれわれの伝統的な政策である」とそっけなかった。証言が報道されてから1週間目の10月12日には、米政府の公式見解なるものを発表。「米国政府は安保条約とこれに関連する諸取り決めに基づく日本に対するその約束を誠実に順守している」とうたった上で、ラロック証言は一私人によってなされたものであり、米政府の見解をなんら代表しうるものではない、と片付けた。
 
▼横須賀に核一時貯蔵庫も

 ラロック元提督はまた、核艦船が入港する際に核兵器を降ろすことはないとしながらも、 例外として「艦船がオーバーホールないし大規模な修理を受けるための寄港」を挙げているが、だとすれば、修理期間中は核兵器の一時貯蔵庫が必要になる道理ではないか。

  これについては、71年1月に上院外交委員会の米安全保障協定・対外公約分科委員会(サイミントン委員長)で開かれた日米安保と沖縄返還に関する公聴会記録に掲載されていた国防総省資料の中にカギを見つけた。この資料の一節は、横須賀の米海軍基地の態様を詳しく説明しているが、2項目目に挙げられた「海軍兵たん施設の機能」の部分は次のように記されていた。

 「海軍兵たん施設の機能 あらゆる種類の弾薬の受け取り、貯蔵、修理、監視および発給。機雷の検査、調整、組み立ておよび保守。音響魚雷の修理、オーバーホール、保管および発給準備。指令に基づく基本的資材の維持。[削除]艦船からの移し変え、一時貯蔵庫の提供。(以下省略)」

 [削除]とはいったい何を削除したのか。支局の同僚と2人でワシントンの多くの軍事権威筋を当たったところ、この部分は「核兵器のための(for nuclear weapons)」を削除したものだとの発言を引き出した。一時貯蔵庫とは、核兵器をそこに移し変え、一時貯蔵するためのものだというのである。

  国防総省当局者にこの点をぶつけたところ、彼は「なんということだ」としばし絶句した後、「調べてみる」とだけ述べて、いっさいの論評を拒否した。その後同省スポークスマンのフリーマン氏は「この削除部分が核兵器であるか否かを確認することは、特定の場所における核兵器の存在ないし不在について肯定も否定もしないという立場と相反することになろう。われわれにはこれ(確認すること)はできない」との声明を共同通信ワシントン支局に寄せた。

 私はラロック証言とそれに絡む一連の取材・報道を通じて、核密約をめぐる日米両政府の次のような筋書きがはっきりと見えてきたと思った。

① 米国は在日米軍基地に長期的に核兵器を持ち込み(動詞はintroduce名詞はintroduction)貯蔵(store)はしていないが、艦船ないし航空機による一時通過ないし一時持ち込み(transit)あるいは一時貯蔵(intransit storage)をしている。

② このような重大問題について日米両政府間に何らかの合意ないし了解がないとは考えられないので、この点については両国政府間に暗黙の了解にしろ、秘密協定の形にしろ、何らかの合意があるに違いない。

③ しかし、これが明らかになることは、60年の安保改定以来、米国がいかなる形にせよ、日本に核を持ち込む場合は日本政府との事前協議の対象になるとしてきた日本政府の立場を窮地に陥れるので、日本政府はこの種の合意の存在を絶対に認めるわけにはいかない。

④ 米国政府もこのよう日本政府の立場を理解し、核の存在、不在については肯定も否定もできないという米政府の方針を貫く。ただし米政府は核兵器の「持ち込み」を日本政府との事前協議の対象としたとされる岸・アイゼンハワー共同コミュニケ(60年1月19日)第2項など一連の日米取り決めを順守していることを強調、米国が一時的にも核兵器を持ち込んではいないとの“印象”を与えることに努める。

 私は74年暮れ、この筋書きを真正面から米政府にぶつけ、さまざまな米国政府の声明から判断して「引き出せる唯一の結論は、米国の核一時持ち込みの権利は日本との事前協議制の対象にはならないということではないか」と締めくくった書面による質問状を国務省太平洋・アジア局広報課に提出し、回答を求めた。その2年半後、私が任期を終えて帰国するまで回答が届くことはなかった。
 
▼「秘密討議記録」が明るみに

 その後日本では、81年に、ライシャワー元駐日大使が「核兵器を積んだ艦船の寄港は核持ち込みに当たらない。日米間に口頭了解(実際には「秘密討議記録」と後に判明)がある」と発言、日本政府を困惑させたが、これについても政府は「一私人」の発言として、まともに取り合わずに事態を切り抜けた。

  さらに2000年ごろから、研究者やジャーナリストの努力で、改定安保条約締結時に両国政府間で交わされた米国では既に開示済みの「秘密討議記録」(いわゆる「密約」)の内容が明らかになった。これは核持ち込みの事前協議について、私がまさに35年前に想定した通り、米軍機の日本飛来と米艦船の日本領海と港湾への進入を明確に対象外と規定するものであった。
 
 そして今年の夏、ついにこの問題に決着をつける証言が現れた。村田元外務次官は、核兵器を搭載する米艦船の日本への寄港と領海通過には事前協議は必要としないとの「密約」があったことを認めた上で、この密約を歴代次官が引き継ぎ、外相にも伝達したことを明らかにしたのである。

 35年前、私が偶然出くわしたラロック証言に端を発した核密約問題は、私が推測した筋書きが立証された形で幕を引こうとしている。もっとも、厳密に言えば、先に挙げた筋書きの②の中で「通過ないし一時持ち込み」や「一時貯蔵」」を事前協議の対象外とする密約として、「暗黙の了解」ないし「秘密協定」を想定していたが、実際には両国間で合意した「秘密討議記録」であった。

 なんとも無駄な時間が過ぎ去ったものである。改定安保条約調印から数えれば半世紀近く、日本政府は政権維持のために、核に敏感な日本国民にうそをつき、米国とは密約を守って、核の一時持ち込みには異議を唱えないという二重人格を演じ続けてきたのである。
 
▼老元提督はなぜ証言したのか

 それにしても、白髪の、軍人に似合わず、いかにも温厚な紳士然としたあの老元提督はなぜ敢えて、日本という国名を挙げて核兵器の一時持ち込みを証言したのであろうか。私は77年春に帰国するまでの間、幾度か話を聞く機会があったが、その点はついに聞きそびれてしまった。しかしその疑問を解くカギはあの証言中の「これらの核兵器の一つをうっかり使ってしまうかもしれないという現実の危険性がある」というくだりにあるのではないか。広島、長崎と2度まで原爆の惨禍に見舞われた日本でそんなことが起きたら、というまさに現実の危機感があの証言にこめられてたいたのではなかったか。
 
 事実、ラロック元提督は72年、ベトナム戦争に幻滅して退役してから、退役軍人をスタッフとする国防情報センターを創設、その所長として核兵器の削減、究極的には廃絶を目指して、情報収集と啓蒙活動を主導、週刊「国防モニター」を発行し、80年代からは公共テレビ番組「アメリカの国防モニター」を立ち上げた。1995年7月17日制作の番組では、自らが出演し、冷戦終了後の情勢に応じて、米軍事予算を3分の1、場合によっては半減しても十分な戦力を保持できると述べ、番組を次のように締めくくった。

「私たちは国内に解決しなければならない問題をたくさん抱えている。ドイツや日本、韓国に基地を維持すべきではない。自分たちの国をよくするために、腰をすえてここ合衆国にとどまるべきなのだ。もし国内で経済的、文化的、社会的に強くなれば、私たちは本当の意味で世界を指導できるようになる」

 ラロック元提督の戦争観は次の発言によく現れている。

 「人々が『彼は自分の命を国に捧げた』と言うのを聞くのはなんともいやですね。自分の命を何かに捧げるなどということはありません。私たちがこの子供たちの命を盗むのです。奪い取るのです。彼らは祖国の名誉と栄光のために死ぬわけではありません。私たちが殺すのです」(スタッズ・ターケル著「よい戦争」より)

 ラロック元提督は93年に国防情報センター所長を退任したが、90歳を超えていまだ健在のようである。「核なき世界」をめざすオバマ大統領の健闘を祈っているに違いない。
                                            (元共同通信 2009年8月記)
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