ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


旅の記憶 の記事一覧に戻る

ゴッホのアルル(岩崎 玄道)2004年5月

 5月1日。南仏アヴィニオンの朝は肌寒く細雨。ホテルの4階の部屋から見上げた空には、黒雲が太く大きくトグロを巻いていた。駅は城門のすぐ外にあって、そこからまっすぐに共和国広場に向けて、この町のメーンストリートが伸びている。法王庁宮殿もロワール河の有名なあの橋も、その先にある。朝の城門付近には北アフリカからの人々が集まってくる臨時のバザールが立つ。カサをさす人はなく、道を行く通勤らしい人たちもヤッケやアノラック姿が多い。冬のオーバーを着ている人もいる。

 午前9時41分発のマルセイユ行きの急行は、20分たらずでアルル駅に着く。到着の5分前くらいから、雨があがり、空が明るくなった。気温の急上昇と乾燥のせいか。糸杉の並びが風を防ぐ、ブドウ、オリーブ、桃などの果樹が植えられた畑から、霞のように水蒸気が湧きあがった。空席だらけの2等コンパートメントを出て(プロバンスの旅は車が主流)、ゴッホのアルル駅に立つと、まぶしすぎる太陽の輝きと、北海道の春を思い出させる清澄な大気に全身が包まれた。プラタナスの大樹が5,6本目の前にあって、つややかな若葉がひかり、鳥のさえずりが聞こえる。高原の瀟洒な駅に降り立った感じである。

 1888年2月21日、パリからゴッホが着いたときは一面の雪で、いまとは違いわびしい田舎駅だった。同日、カルヴァル通り30番地のカルル亭気付で、弟・テオにあてた手紙にはこう書かれている。「60センチもの雪が積もって、いまも降り続いている」。しかし、パリ在住のジャーナリスト・藤村信さんは「ゴッホ星への旅」(岩波新書)の脚注で、当時の地元紙によると37~45㌢、気象測候所の報告では25~30㌢と正確に調べ上げている。この藤村さんの新書を携えた、私の追体験がここから始まった。

 案内図もなく番地だけで、最初に彼が投宿した旅籠屋・カルル亭を探したが見つからなかった。番地は城門を入って近いところなので駅から徒歩7分程度だが、画業の七つ道具などを背負っての雪の道だから10分以上かかったかもしれない。ゴーギャンとの9週間の共同生活と破局で知られる「黄色い家」は、城門の前の広場の位置にあって、その右後方でローヌが城壁に沿うように身をよじっている。駅からは約4分だ。この家は第二次大戦の空襲で破壊されてしまった。いまはそこに黄色い壁の小さなホテルが建っている。「馬車の通るはね橋」までは、フランス最大のコロシウムの近くからタクシーで往復18ユーロ。歩くにはちょっときつい距離だが、彼は麦わら帽子をかぶり、画架をかついで、炎天下、何回も行き来したはずだ。小舟しか通れそうもないその運河で、釣り糸をたれている人がいた。

 ところで、彼はなぜプロバンスへやってきたのか。浮世絵のなかに夢想していた「日本」を、そこに求めて来たようなのだ。パリでの2年間で、ゴッホは誰よりも北斎、広重、豊国らの作品にふれる機会に恵まれた。これも弟・テオのおかげである。遠近法を無視した斬新な構成や、単純化と澄明感に心を動かされ、その技法をプロバンスの光の中で習得しようとしたのだ。古典主義に固執する既存の官展(サロン)の世界に満足できず、その権威に抗して、新地平を求めてやまない創造的精神が浮世絵を介して、プロバンスで開化し、「ひまわり」や「星月夜」などを生んだ。現状に充足しえない純粋さが、東洋の異質に刺激され「奇跡」をなしたともいえるだろう。異質との出会いはいつも豊饒だ。往々に混乱も悲劇も伴うが。彼の手紙には要旨だが、こんな言葉も残っている。日本の芸術家はただ一茎の草の芽を観察して、そこから森羅万象を描く/われわれは因襲の中で教育を受けて、仕事をしているが、もっと自然にかえらなければならない。ぼくは日本人がその作品のすべてに持っている極度の明確さをうらやましく思う――。

 5月1日は牧童祭だったので、独特の伝統衣装で着飾ったギリシャの末裔・アルルの女たちの姿が、闘牛のポスターが貼られた石の坂道のそこかしこで見られた。市庁舎前広場にはにぎやかなパレードを待つ大勢の観光客が集まり、中高年の女性の多くは花売りから買ったスズランを手にしていた。

 翌日はアヴィニオンからサンレミへ行った。バスで行く道の両側には花をつけたリラやプラタナスの並木が時々現れた。元修道院の療養院は岩山を背後にした高台の上の方にあって、広々とした傾斜地には黄色や紫の草花が咲き、紅いポピーが群生していた。

 翌々日は郊外には水田もあるというアルル駅頭からバスに乗った。ゴッホが初めて地中海を見て、その色彩を「鯖のように千変万化」と表現した巡礼地を訪ねる。サント・マリー・ドゥ・ラ・メール(海の聖マリアたち)。途中、広大な湿地帯・カマルグを車で移動して楽しむ人たちのためのドライブ・インや白馬が群れる牧場が目に入った。到着した海浜には風と弱い雨で人影はなく、旅行客は小こじんまりした土産物屋やシーフードレストランが軒を連ねる小路にかたまっていた。しばらく海を見た後、彼が遠方からスケッチした教会に入ってみる。そこは、華美とか荘厳さは皆無で、正面の奥に黒光りしたマリア像がある心地よい黙想空間だった。後で旅行案内で、礼拝堂にはロマの人たちの守護聖人・サラの像があることを知る。(藤村信 本名・熊田亨会員追悼 2004.5.24付の北海道新聞夕刊に掲載したものに一部加筆)
ページのTOPへ