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リスボンのカテーテル(大橋 弘)2006年7月

 ぼんやりと風景が区分けできるようになった窓外に目をやると、雑木林や家並みが陰画のように見える。マドリッドから11時間近く走り続けてきた夜行列車ルシタニア号も終着駅に近くなった。コンパートメントに付いているシャワー、トイレ、洗面スペースでゆっくりと身支度していると、ドアがノックされて朝食の知らせ。食堂車から見る風景はもうすっきりと明るい。「お天気に恵まれたなあ」。つぶやいて家人と顔を見合わせる。
 
 終着サンタアポローニャ駅は旅客の波がほんのひと時で去ってしまうと色褪せた壁が物憂げだが、テージョ川沿いに建つ駅舎を一歩出て空を仰げば南東方向にわずかに白い雲。リスボンの青空はまぶしく、顔に当たる空気は暖かい。2月中旬からスペインを旅して予想外の寒さに少し驚かされていた。バルセロナからグラナダへ向かう列車からはアンダルシアの丘を覆う一面の雪を見た。グラナダでもコルドバでもみぞれまじりの日にぶつかった。             
 
 コルドバからのAVE(新幹線)で一人旅の若い日本人女性と乗り合わせた。「カデイスで財布を掏られ、同情してくれた日本人ツーリストに借りたお金で旅を続けている」と話す。夜行でこれからバルセロナへ向かうと言う。マドリッド・アトーチャ駅に着いてAVEを乗り換え夜行列車の出るチャマルテイン駅へ共に移動した。構内で夕食をとりながら少々の持ち合わせを貸した。愛知県東部出身、早大文学部の2年生。「これだけあればユースホステルに5泊できます」。若々しい言葉を聞き同駅からそれぞれ西と東に向かう列車に乗ったのだ。
 
 何だか気分のよさが続いている。タクシーでダウンタウンを抜けリベルダーデ通りを走ればボンバル侯爵広場。広いロビーのあるアメリカンスタイルのホテルへ入ったのは午前中だったが入室OK。「部屋は広いしたまにはアメリカンスタイルのホテルもいいな」とベッドにひっくり返り一休み。列車のシャワーは使う気持ちが起きないほど狭かった。ここでゆっくり湯を浴び、さっぱりして昼下がりのリスボンをぶらり、街歩きに出かけよう。少々しなければならないこともある。
 
 「ええ!ない?」。浴室に入ってたちまち頭の中に雲が湧いた。カテーテルをどこに納めただろうか?使おうと思った瞬間、すでに忘れてきたという確信。トランクやリュックをかき回したがないものはない。膀胱を手術で作り直してから六年半。朝、夕、就寝前の一日三回は自家導尿しないと苦しくなって体が持たない。昨夜、コンパートメントの水まわりで使ったあと鞘に入れ、必要なツールをまとめて寝台の片隅に置いた。今朝も、と思ったが「ホテルで使えばいい」と我慢してきた。カテーテルはわが命綱。タクシーで駅へ取って返す。
 
 「他人にはごみでも私には大切な生きるツールなんだ」と下手な英語で遺失物係の女性に力説しても、木で鼻をくくったような態度。「そんなに大切なものなら夕刻、もう一度来て見たら」。車内の清掃係にはごみ同然だろう。それでも夕刻出かけた。やはりない。夜は懸命に下腹部を押して自力排尿。ほんの少し。「涙目になってる」と家人。たはははは--。深刻さが足らぬ。
 
 翌日は日曜日。病院は休みだろう。朝から薬局探し。日本同様「医師の処方箋が要る」と言われたらどうしよう。ま、何とかロシオ広場にある三店目の大きな薬局で必要なクリームと共にカテーテルを入手できた。ふーっと安堵のため息。手渡す男性薬剤師が笑顔でウインク。日本製より大分長い。ホテルに戻って早速用いると挿入に少々手間取るものの十分役に立つ。「さあ、街歩き」。自分で声の弾むのがわかる。
 
 市電15番でベレンへ。発見のモニュメントの眼下、テージョ川は四月二十五日橋をくぐってゆったりと流れ、振り返ればジェロニモス修道院越しに見るリスボンの住宅街。レンガ色の屋根が春近い陽光をはねかえす。

  モンセラット中腹、タラゴナの地中海を見る広場、アルハンブラからアルバイシン、その逆、シントラのぺーナ宮、そしてトレドの丘上にあるパラドール、ETC――。さまざまな所で眺望を楽しんだ旅でもあったが、このときほど遠い情景が明るく映ったことはない。

  帰宅すると早大生からメールが入っていた。わずかなお金もちゃんと戻ってきた。ただリスボンと、その後滞在したトレドで十分に役立ってくれたカテーテルだけはどういうわけかうまく機能しない。「自宅にいくらも使い慣れた日本製があるじゃないか。おれはもうお役ごめんだよ」。そうとでも言いたいのか?それでも捨てきれずにとってある。(2006年7月記)
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