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2014年04月 : ニクソン・ショック狂騒劇(第1章)              ブレトンウッズ体制の終焉


松尾 好治

世界の耳目を驚かした歴史上の大経済事件、ニクソン.ショック。それは1971年8月15日(日本時間16日)のことだった。私はこの前後5年にわたって大蔵省、日銀を担当し、ショックの時点では日銀キャップとして渦中にもろに巻き込まれた。マグニチュード9クラスの地殻変動に襲われて通貨当局は上を下への大騒動、共同通信社の外信部のテレックスはワシントン支局などからの送稿がひっきりなしで機関銃玉のように鳴り続けた。米国のニクソン大統領が特別演説で発表した金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の実施といった緊急経済対策で世界経済全体が大混乱に陥り、世界的リセッションが憂慮される事態となった。米国も随分勝手なことをやるもんだというのが第一印象だ。これから事態はどう展開するか皆目見当もつかないが、ともかく取材をやり抜かなければならないと武者震いするような高揚感は間違いなくあった。


このニクソン・ショックは日本の通貨外交、経済政策の在り方はもちろん、取材側の対応にも多くの教訓を残した。その後、世界ではエネルギー危機やアジア金融危機、リーマン・ショックなど、さまざまな経済危機が頻発したが、ニクソン・ショックの世界経済に対する影響は延々と今日まで続いている。


第二次世界大戦後から各国通貨のアンカーとして自他共に認められ続けたキーカレンシー、米国のドル。金といつでも交換できると銘打っていたからありがたみは絶大だった。通貨にも、その国の経済力の強弱によって栄枯衰退がある。英ポンドは英国経済の地盤沈下によってキーカレンシーの地位をドルに譲った。そのドルも戦後の荒廃から息を吹き返した西ドイツ、日本の急成長によって米国経済が追い上げられるにつれて、その信認には次第に影が差し始めた。世界には既に大量のドルがばらまかれている。1959年を境にドル余剰の時代に入ってきた。ドルが余ればありがたみは少なくなるから、各国は争ってドルを安全と思われる金に替える。1960年には海外に流出したドルが初めて米国の金保有高を上回り、ドル不安を浮き上がらせた。この時から既にニューヨーク連銀副総裁だったチャールズ・A・クームズは、戦後のIMF体制(金ドル本位制と各国が自国通貨をドルに固定する固定相場制を柱とするいわゆるブレトンウッズ体制)が難局に向かいつつあることを明確に認識していたという。


◆◇金の二重価格制導入◇◆


1961年のベトナム戦争への米国の軍事介入、インフレ高進は、海外へのドル流出を加速させる結果を招く。国際収支のアンバランスが構造的なものと判断されるようになると平価変更を認めるのがIMF体制の建て前だ。ポンド危機が発生した英国は1967年11月18日ポンドを14・3%切り下げた。これは共同通信ロンドン電のスクープで第一報が報じられ、当時大蔵省担当だった私は大いに鼻が高くなるのを覚えたものだ。眼を世界に転じると、このポンド切り下げはドルの切り下げにつながるとの憶測を呼び、ドルを金に換える動きが激化した。この動きは国際通貨の怪しげな雲行きを感じさせるに十分なものがあった。米国からの金流出対策として1968年3月、金市場を公的市場と自由市場に分けた金の二重価格制(政府の金を民間市場に売ることを共同で停止した)が導入された。私の取材メモに残る。この時、宇佐美洵日銀総裁は「これから何が起こるか分からない」と不安感を漏らした。宇佐美さんがやがて来るニクソン・ショックまで予知していたとは思えないが、国際通貨体制の危機を感じ取っていたことは確かだろう。私に国際通貨問題の重大性を認識させるきっかけになったのは、この金の二重価格制である。世界経済はまさしく大きな曲がり角に差し掛かっていた。


このころ、西ドイツ、日本の経済力はまさに登り竜、日の出の勢いである。西ドイツは1960年にGNP(当時は一般にGNPを指標として多用した)が世界第2位となって1961年3月にはマルクを5%切り上げ、片や1968年5月以降国際収支が黒字基調に転じた日本のGNPはこの年、西ドイツを抜き世界第2位に躍進した。ベトナム戦争のための大量の出費(ドルのたれ流し)、米国内のインフレが日本の対米貿易黒字に大いに貢献する役割を果たしたと言える。ベトナム戦争はドル不安の深刻化、それに日本の経済力の増大と切っても切り離せない。


ポール・ボルカー米財務次官(後に米連邦準備制度理事会議長)の1969年8月の議会証言は、国際通貨制度、急速に台頭してきた黒字国に対する米国の考え方を明らかにしたものだ。この証言には大蔵省もかなり強い関心を寄せていたのは事実である。


「最近における国際通貨制度(動揺)の原因はいろいろあるが、その一部は通貨制度自体が実情に合わなくなってきていること、その不必要な硬直性とに求められる。ドルは世界の準備通貨、決済通貨として広く使われており、この現実はいかんともし難い。米国の物価安定策と国際通貨制度全体とは、切り離して考えるわけにはいかない。もちろん問題は米国経済のみにあるのではない。多額かつ持続的な貿易収支の黒字を持っている主要国が輸入制限の自由化、特段の輸出振興策の廃止、あるいは能力いっぱいまでの国内経済の拡大の点において遅いという問題もある。これらの国々の黒字を減らすことは、米国、英国、フランスなどの赤字をなくすのと同様に重要なことであり、問題は過度のインフレやデフレを招くことなく、どうやってそれを実現するかである。このような観点から内外で為替相場制度が問題になってきている」


この発言の中の「主要国」は言うまでもなく西ドイツ、日本を指している。この証言はブレトンウッズ体制の終焉を暗示するとともに、特に黒字国である日本の対応の遅さに対する米国のいらだちを示している。ブレトンウッズ体制では黒字国に切り上げの調整圧力がなかなかかかりにくいことに米国は強い不満を抱いていたのだ。西ドイツはこの後、同年10月にマルクを9.3%切り上げた。日本円は次第に標的にされるようになる。ロンドン・エコノミスト誌や西ドイツ金融筋が公然と円切り上げを要求し始めた。円に対する外圧がじわじわと強まってきたのは、この1969年ごろからである。


◆◇大慌ての円切り上げ回避策◇◆


円切り上げ問題は、日本経済全体に大きくのしかかってきた。メディアもこの問題から片時も目を離すことはできない。特に大蔵省、日銀担当の第一線記者は通貨問題のフォローに重責を担うことになった。経済専門家のこの問題を巡る論争が日を追って白熱化してくる。円切り上げ反対の急先鋒は三菱銀行調査部だ。1969年10月の調査部レポートは「マルクが切り上げられたことから、最近ではマルクの次は円の切り上げだという言葉が、新聞、雑誌の論説や国際会議のロビーでささやかれるようになっていると伝えられる。現行の1ドル=360円という対ドル平価はほぼ適正と判断される。円の平価が問題になるということ自体が 日本人にとっては大きな驚きであり、経済の土台が根底から揺り動かされているように感じる」と勇ましい。この後、同調査部の英文誌(1971年7月号)は「われわれは円切り上げの必然性を全く認めないし、現状のわが国経済の置かれた状態からみて、平価調整は対内的にも対外的にも最も拙劣にして実りの少ない政策と考える」と断じた。


それまでの20年間、高度成長と輸出競争力強化を目指してきた日本の経済政策は、国民生活の安定と生活水準の向上に重点を移す転換期にあり、この構造転換には時間が必要で、円切り上げは転換の好機を一瞬にして奪い去るというのが反対の理由だった。水田三喜男蔵相も秋からの通貨外交の舞台で最初これと同じ論法を用いた。


これとは全く対照的に円切り上げ是認の立場に立ったのが野村総合研究所、日本興業銀行調査部だ。1970年2月に野村総合研究所証券調査部がまとめた「円切り上げとその影響」と題するレポートは、日本経済の活力が国際的に認識されるようになったと判断したうえで「インフレの抑制、社会資本の充実という1970年代の政策課題の解決に円切り上げは有効な手掛かりを与えてくれる。長期的には、経済成長のポテンシャルを高め、将来の国際競争力を強くすることが予想される」と円切り上げ積極活用論を主張した。日本興業銀行調査部の同年5月のレポートは日本の国際収支の黒字が構造的なものであることをはっきり認め、「現実的判断からすると、数年内には切り上げを不可避とする条件が成立する公算が大きい」と予測、円切り上げは「結果としては、内外におけるわが国製品の競争力を再評価し、わが国の生産構造を低生産性部門から高生産性部門へシフトさせる促進要因の一つとなり得よう」と、そのプラス面を評価した。


大蔵省出身で為替問題の専門家でもあった伊原隆横浜銀行頭取のバーゼル統計経済学会での講演(1970年3月)は、円切り上げ問題に対する当時の大蔵省の考え方を代弁したものだろう。伊原さんは「海外で円問題が非常に関心の高い話題になっているが、政府、銀行家、ビジネスマンの間などでは、円切り上げを実際的な問題としては、だれも現段階では考えていない」としたうえで、日本経済が過去20年間安定した1ドル=360円の為替レートを軸として発展してきたこと、日本が輸入制限を緩和したり資本の輸出入を自由にしたり為替管理をもっと自由にしていった場合の円の実勢がまだ試されていないこと、日本の国際収支に確かに黒字が定着したのかはまだもう少し注視する必要があることなどを挙げ、円切り上げに否定的な考え方を示した。


大蔵省はあらゆる事態を想定して準備する用心深さがあるから、実際には1969年ごろから内部でひそかに円切り上げに備える作業に入っていたのである。私がこの事実を知ったのはニクソン・ショック後の1971年11月半ばのことだった。せっかくのこの作業もあまりにも政治的に問題が大きすぎるということで、成案に至らないまま尻切れトンボに終わっている。やはり、とことんまでやり抜くべきだったと思う。


強まる円切り上げ圧力に対して大蔵省が取った政策は、まず1969年1月からの円シフト(外貨金融から円金融への振り替え)誘導策に始まって対外経済効力の増大、自主防衛力の増強など外貨準備の増加を抑え、あるいはあまり目立たないようにする措置である。だが1970年下期から国際収支黒字幅は拡大して外貨準備が著しく増え、1971年に入っても大幅な黒字基調が続いた。これに反して米国は日本の輸出攻勢を主因に拡大する貿易収支の赤字、失業の増加傾向にいらだちを強めつつあった。そこで出てきたのがニクソン政権の「ビナイン・ネグレクト(優雅なる怠惰)」政策だ。要は国際収支の赤字を無視して景気拡大策を取るということであり、強い通貨は切り上げるべきだという考え方に立っていた。これは国内政策を重視し、ドルのたれ流しを続けることを意味したから、ドルの信認を一層低下させ、国際通貨不安を一段とかき立てる結果になった。この政策は基軸通貨国としては無責任のそしりを免れない。ともあれ、世界経済全体を成長の鈍化、不均衡の拡大、インフレの高進という暗雲が大きく覆いつつあった。


1971年5月にマルク投機が発生、マルクが変動相場制に移行したことは、玉突きのように日本円を窮地に追い詰める作用をした。円の購買力が高まっているのは事実としても、国内経済界に根強い円切り上げ反対論を無視して切り上げに踏み切る勇気は政治にはない。緊迫化してきた情勢にどう対処するか、何とかして円切り上げを回避したいと政府が6月に急きょ打ち出したのは、輸入自由化の促進をはじめ、特恵関税の早期実施、関税引き下げの推進、資本自由化、資本輸出の促進、非関税障壁の除去、経済協力の促進、秩序ある輸出の確立をちりばめた円対策8項目(総合的対外経済政策)だ。だが自由化などは関係者間の調整が一筋縄ではいかないから小出しにするしかない。一方海外からは円切り上げ圧力がいよいよ猶予ならない事態に突入している情報が次々に入ってくる。6月下旬米国での日米財界人会議から帰国した岩佐凱実富士銀行会長が明らかにした米国内の空気はこうだ。


「米国にとって著しく入超になっているのはカナダ、西ドイツ、日本。日独を比べると、最近日本からの入超が著しく増大している。米独間では互恵平等だが、日本との間ではまだ隔たりがある。米経済界から事は緊急を要することを認識してほしいという要望があった。日本からの輸入急増で労働者が職を失っている。ベトナムからの復員者の職がないところに、互恵平等がないゆえに、日本への風当たりが強くなってきている。雑談では日本円は10-20%過小評価ではないか、という米財界人もいた」


6月下旬、BIS(国際決済銀行)月例会議 に出席した井上四郎日銀理事(後にアジア開発銀行総裁)もBISでの緊迫した空気から危機感を抱いて帰国した。「BISでも日米関係が緊張化している。円問題は日米関係だ。欧州諸国は日本の輸出競争力の増大については観念的な脅威しか感じていないが、米国はそれを肌身で感じ取っている」


米国は失業(年間550万人)、インフレ、輸入増に悩み、貿易収支はおよそ80年ぶりに赤字に転落する気配が強まり、その元凶は日本と見なしていたのだ。米側の出したシグナルに対する日本政府の反応は、財政金融による景気対策の強化である。だが当時財政でやれることは財政投融資の追加ぐらいで効果はたかが知れている。狙われたのは日銀の公定歩合だ。この公定歩合は5月初めに第3次引き下げを実施したばかり。景気は回復過程(4-6月に底入れ、徐々に上昇中)に入っているというのが衆目の一致するところで、日銀は金融政策上、第4次引き下げの必要はないと判断していた。日銀に拒否されると、景気対策の目玉がなくなる。9月に第8回日米貿易経済合同委員会を控えているだけに、このままでは米側からの円切り上げ圧力をかわせなくなると大蔵省は大慌てにあわてた。国内的にもまごまごしていて実力者、田中角栄通産相のペースにはまり込むのは、何としても避けたい。水田蔵相がある夜、佐々木直日銀総裁を呼び出して直談判し、数少ない金融政策が鈍刀になることを恐れていた佐々木さんを強引にねじ伏せた。


こうして7月27日、財投の追加から成る景気対策、第4次公定歩合引き下げが決まったのだ。この二週間前、佐々木さんは通貨不安を巡り「ドル切り下げ、金価格引き上げの時、日本としてどうするかが分からない」と行方を案じながらも、公定歩合については「どの程度の心理的効果が期待できるか、ということだ。金融政策が効果のない使われ方をして傷つけられるのを恐れる」と発言したばかりだった。日ごろから辺りをはばかることなくずばずば発言する日銀関係者は、公定歩合引き下げ決定の直前、「政府の施策はお粗末な内容だ。財投追加の効果はすぐに出ない。日銀としてはポリシーミックスの観点が大義名分。効果がなくてもオジヤみたいなものだから、責任は持たなくてよい」と痛烈に皮肉った。


この景気対策は大蔵省関係者の間にも批判があった。正式決定の十日ほど前である。大蔵省のドンとも言うべき存在だったOBの石野信一神戸銀行頭取(元事務次官)は「大蔵省はちょっと性急になっているのではないか。公定歩合を下げても効果はないが、円対策8項目の中で自由化などはなかなかやれないから手っ取り早い財政金融ということになるのだろう。社会資本を充実すれば物価も下がる。そういう考え方の転換が必要な時期になっている。行政の総合性が政府には欠けている」と嘆いた。


決定を受けて私が書いた記事のあらましはこうだ。「景気総合対策は、景気の早期回復、黒字幅縮小を狙いに円防衛という“錦の御旗”を掲げ、いろいろ盛り合わせてはあるが、財投の第二次追加をはじめいずれもすぐ効果を期待できるものではなく、心理的効果を狙うということであれば、やはり目玉商品は公定歩合だ。水田蔵相は『これ以上打つ手はない』と述べており、円切り上げを巡って激しい応酬が繰り返されると見られる第8回日米経済委に向けて政府、日銀の用意はまず九分通り整った形だ。まさに円防衛に対する背水の陣と言っても過言ではないだろう。第4次公定歩合引き下げを巡って特徴的なのは、佐々木日銀総裁の決断が割合早かったとは言うものの、日銀全体としては終始引き下げに消極的だったことだ」。


果たしてこの程度の対策の内容で円切り上げ圧力をかわせると大蔵省は信じていたのだろうか。“背水の陣”は振り返ってみれば、 日本政府の周章狼狽ぶりを露呈したお粗末なパフォーマンスにすぎなかった。当時私たち取材の第一線にいた者は、目先の動きを追うのに精いっぱいで問題の核心は何かについて考えをめぐらすことをしていなかった。今にして思うと、西ドイツがマルクを切り上げ、続いて変動相場制に移行した後、米国は日本が追随して円を切り上げるのか重大な関心を持って見守っていたのだろう。日本がIMF体制の危機的な状況、黒字国としての国際的な責任をはっきり認識していれば、この時、国内に頑強な反対論が予想されるにせよ、景気総合対策ではなく、万難を排して円を切り上げる選択肢はあったと思う。


◆◇サイは投げられた◇◆


当時の国際情勢の中で日本の政府、経済界は円問題をどう位置付けていたのか。前述の通り、井上四郎日銀理事は「円問題は対米関係」と指摘していた。この対米関係の糸をさらに手繰っていくと米中関係が浮上してくる。この年7月15日、ニクソン大統領が全米向けテレビ放送で翌72年5月より前に長年疎遠な関係にあった中国を訪問すると発表した。第1次ニクソン・ショックとも言われる。ニクソン大統領としては差し当たりは緊張緩和が狙いだったのだが、ともかく米国は紛れもなく中国との関係正常化に乗り出したのである。これは日本を頭越しにした発表で、米国の意向に沿って中国封じ込めに全面的に協力してきた親米路線の佐藤栄作政権に大きな衝撃を与えた。日米関係に新たに米中関係が絡み合ってくる。この時経済界の一部の人は米中が手を結ぶと、日本は窮地に追い込まれるのではないか、という危機感を抱いた。


この国際情勢の急速な展開と円問題の接点は、日本の経済力の強大化である。米国は実力を付けてきた日本を牽制し、抑え込むため当然中国を利用しようとするだろう。円問題はその際取引材料になる恐れがある。ニクソン訪中発表直後、金融界のある有力アナリストは「米中国交回復にはなお時間がかかろうが、両国関係はプラスの方向にある。これは日本に対しては圧迫要因だ。米中両国は膨大だから、力でのケンカにはならない。円切り上げは日本の経済力の増大を背景とする一種の軍縮の動きだ。円切り上げを拒否するなら日米安保体制を破棄すると米国は脅してくるだろうから、円問題は米国の言うことを聞かざるを得ない。日本は正念場にあり、円問題でどこまで抵抗できるか。日本は円問題を国際協調の一環として考え、生きる道を探るしかないのでは」と分析した。米国の対日警戒感は日一日と厳しさを増しつつあった。


日米関係は明らかにきしみ始めていた。十分なコミュニケーションがないまま、ニクソン政権が日本の取った景気総合対策にすっかり失望し、強硬策に傾いたのは間違いあるまい。8月に入ると、変動相場制のマルク相場がじりじり上がって8%の切り上げ水準になり、欧州にあふれた過剰ドルの投機的な動きが激化し、欧州為替市場は大混乱状態に陥った。投機資金は円を狙って日本にも向かってくる。日銀の為替平衡操作によるドル買いは8月初めから半月も経たずに6億ドルに達した。ドル危機がはっきり表面化したのである。


日本時間8月16日(月曜)午前10時、ニクソン大統領の演説が世界を駆け巡った。ついにサイが投げられた。政府、経済界、メディアのいずれも危機は感じていたものの実際には予知できなかった大激震である。金・ドルの交換性停止はブレトンウッズ体制の崩壊を意味していたのだが、当時そうした認識は全くなかった。通貨当局はもちろん、都市銀行の為替専門家にも崩壊と実感した人は少なかった。この日、日銀の緒方四十郎外国局総務課長(後に日銀理事、日本開発銀行副総裁)は、「金・ドルの交換性停止は現行国際通貨制度に大きな変革的意味がある」としながらも、「金の二重価格制に終止符を打ったわけではない。公的取引がしばらく休眠状態に入る」とコメントした。緒方さんがブレトンウッズ体制崩壊の認識をはっきり示したのは一週間後のことだった。


このショックは実感として非常に大きく、編集局全体が極度の緊張に包まれた。大慌ての大蔵省、日銀の動き、経済界の反応などを追いかけるのに、私たち取材陣も大騒ぎで、いたずらに興奮して駆けずり回った。市場は既に開いていた時間なので、この日急に閉鎖することは考えられなかったが、問題は翌日以降どうするかである。夕方の大蔵省緊急幹部会議を経て17日からも外国為替市場を開き、日銀が1ドル=360円の固定相場でドル買いを続けたのである。一方、欧州主要国は16日から為替市場を軒並み閉鎖した。この違いは、だれの目にも不思議に映った。この時国際通貨のプロたちがニクソン・ショックのマグニチュードの大きさについて誤った判断をしていた。その事実を私が掌握したのは、およそ二ヶ月後だ。当時の通貨当局の内部の動き、関係国間の応酬の詳細は霧に包まれていることが圧倒的に多く、詳しい内容はなかなかつかめなかった。


◆◇激論「東京市場は開けるのか、閉めるのか」◇◆


実は大蔵省緊急幹部会議では17日から市場を開くか閉めるかで大激論があったのだ。国際金融局に在籍した人の証言によれば、それは大ゲンカに近い状態だった。当事者の回顧から引用すると、鳩山威一郎事務次官(後に参院議員、外相)が「市場の混乱は当たり前ですぐ閉鎖するのが常識」と主張したのに対し、柏木雄介顧問(前財務官、後に東京銀行頭取、会長)は「日本の為替管理は厳重。突然閉めたら貿易、経済自体が混乱する」「マーケットを一度閉めたら開ける時が大変」と猛反対し、結局柏木説が通った。細見卓財務官(後に海外経済協力基金総裁、ニッセイ基礎研究所会長)は柏木さんには「市場を開き続けてドルが売りたたかれるのを防いでやるのが米国の望み」という思い違いがあったと見ていた。当時大蔵省、日銀関係者の中で情勢を最も正確に把握していたのは鈴木秀雄IMF理事(後に野村証券顧問)である。鈴木さんは緊急幹部会議前にワシントンから国際金融局に電話をかけ、「金・ドル交換性停止はドルの変動相場制と同じ考えで、そのドルを買うバカもいまいということ、課徴金はドル切り下げの代用。市場は閉めるべきだ」として幹部に周知徹底するよう依頼したというが、幹部会議でこの提言は全く生かされなかったわけだ。


日銀も市場を開き続けるよう大蔵省に申し入れていた。当時、外為資金貸しという制度があって、日銀が都銀に円を安く供給する代わりにそれに見合うドルを買い持たせる仕組みで、いきなり市場を閉めると都銀は買い持ちのドルを売り戻せなくなる。何が起きるか分からないにせよ、都銀に大損させる事態は避けたいと日銀は判断したのである。柏木さんと緊密に連絡を取り合っていた井上日銀理事は「為替市場は断固開き続けますよ」と息巻いていて、この井上さんの気迫には私も思わず圧倒されたほどである。日銀も米国の意図について当初ミス・ジャッジがあった。課徴金を事実上のドル切り下げと見たところまではよかったのだが、これによって円切り上げ圧力は弱まり、円切り上げの時期は二、三年先に遠のいた、為替市場の続開は「円・ドル一体を世界に誇示したもの」と専門家が言い切った。


ドル危機に神経を尖らせていた銀行の外国部門担当者の行動は素早かった。先を読み、機を見るに敏な彼らが、円切り上げが遠のいたという発言を額面通り受け取るはずがない。円切り上げか変動相場制か、どちらかは必至と見たのだ。市場が開かれている間に一刻も早くと、ドル売りに殺到した。日銀は8月に入ってから連日5、6千万ドルの平衡買いをやっていたが、16日のドル買いは一挙に約六億ドルに達した。18日には横山宗一・東京銀行専務がドルを売らないと言った舌の根も乾かないうちに、同銀行は大量のドル売りをして日銀を驚かせた。これは、まさにパニックだ。諸外国が為替市場を閉鎖しているのに東京市場だけが開いているのだから、大量の短資がそれっとばかり色々な形で流れ込んでくるのも当然だっただろう。

経済界全体が疑心暗鬼の状態になりつつある感があった。円が切り上げられるとドル建て輸出は為替差損を生ずるから、輸出業者はこれを防ぐため商品を駆け込み輸出して代金の回収を図り、振り出された輸出手形が市場に持ち込まれる。銀行は手持ちのドルを処分するだけでなく、輸出前受け金として海外支店から手持ち資金を送金させ、あるいは外銀から借り入れてまで送金させた。これらがすべて日銀のドル平衡買いの対象になったのだ。日銀は外貨の円転換についての制限枠を設けていたが、この規制を守った銀行と守らなかった銀行があり、大量にドルを売った銀行が得をする結果になった。ドル売りの嵐には、さすがの通貨当局も音をあげざるを得なかった。

8月27日を最後に1ドル=360円の固定相場でのドル買いを停止するまでの十一日間、日銀のドル買い支え額はおよそ40億ドルに上った。この最後の日に日銀は通常の市場閉鎖時間を特に15分延長して都銀二行からドルを買うという至れり尽くせりの救済措置まで講じた。日銀の担当者の表現を借りれば「銀行によくドルがあった。かまどの灰をひっくり返して一切合財売ったのではないか」。銀行の為替リスクを日銀がすっかり肩代わりしたのである。だが、厳重な為替管理だから投機資金の流入は防げるとしていた通貨当局の判断にもかかわらず、その為替管理の網をかいくぐって大量の投機資金が入り込んだのは明らかだった。当時、日本の為替管理は厳重とは言いながらも、実際には外貨が出ていくのをチェックすることに重点があり、外貨が入るのには甘かったのである。後になって柏木さんも「あのどさくさでもうけた奴もいる」とぼやいた。何ともあきれるほどのドタバタ劇であった。(第2章に続く)

(元共同通信記者 2014年3月記)

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