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「私の取材余話」「旅の記憶」などのシリーズに分かれています。

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2011年10月 : 独裁者、その最後の時 パート2  ハワイのイメルダ・マルコス夫人


千野 境子

北朝鮮の金正日総書記のいわゆる「喜ばせ組」とかリビアのカダフィ大佐の「カダフィ・ガールズ」。「陰に女あり」は、いまや事件より独裁者に似合わしいかもしれない。

しかし陰に飽き足らず、自らプチ独裁者になってしまった女性たちもいる。


例えばフィリピンのイメルダ・マルコス元大統領夫人がそう。レイテ島出身で“タクロバンのバラ”(ビューティー・クイーン)と謳われた美貌を武器に大統領夫人にまで上りつめ、約20年にわたり権勢をほしいままにした。ピープルズ・パワーで一度は母国を追われたものの、マルコス没後の1992年に帰国を果たし、息子娘ともども政治家として復権、82歳のいまなお健在だ。


独裁者パート2はイメルダ夫人を取り上げたい。もともと初回に登場したパナマの最高実力者、マヌエル・ノリエガ将軍にインタビューするきっかけとなったのがイメルダ夫人だった。


1989年7月、私はフェルディナンド・マルコス元大統領夫妻に会うべく、ハワイに出張した。マルコス政権崩壊からすでに3年5カ月が経っていた。取材の準備は東京でそれなりにしてきたつもりだったが、いざ現地へ来て見ると様子は少し違った。


携帯電話などまだ一般的な時代でなく、滞在先のホテルでひたすら取材の連絡を待つ私は、部屋で暇つぶしにテレビを見るしかなかった。その時、ニュースが米国と対立するノリエガ将軍の顔を大写しにした。これがなかなかの迫力で、初回にも書いたけれど、「一体どれほどの悪人なのか、会えたら面白いかもしれない」とインタビューを思いついたのだった。


もう権力の座を降りていたマルコス夫妻のインタビューが難航したのは、マルコスがすでに聖フランシス医療センターのICU(集中治療室)に入っていたからだった。マルコス重病の報道に私は半信半疑だったが、本当だったのである。


首尾よくICUの中に入ることが出来たとしても、マルコス自身に話を聞くことはもう不可能なのだ。独裁20年のこと、マラカニアン宮殿を脱出する最後の瞬間のこと、聞きたいことはいろいろあったのに、遅かった…と悔やまれた。


イメルダはと言えば、看病のため病院へ日参していた。電話を待っていても埒が明かないので、私も病院へ行くことにした。



◆◇リムジンからジャケットにパンツ姿で◆◇


黒塗りのリムジンが病院の玄関寄せに近づくと、ロビーで待機していたマルコス家のガードマンたちが素早く動く。一瞬、張り詰めた空気の中をイメルダが降り立つ。


ジャケットにパンツ姿のイメルダは元ファースト・レディーというよりは、かいがいしい家政婦さんといったところだ。夫人と常に行動を共にしたブルー・レディーズ(イメルダ親衛隊)の姿もない。それでも人払いするような威圧感は彼女ならではだった。


病院へ行ったのは正解だった。夫妻の取り巻きたち、ハワイのフィリピン・コミュニティーや後述するが地元記者たちなどと顔見知りになれたし、何よりもイメルダに病院のテラスと一族の住むマキキ・ハイツ・ドライブの邸宅で、二度インタビューをすることが出来た。


取材にはなかなか応じてくれないが、一旦会えば時間も忘れ、お喋りが止まらない。イメルダに会った人の多くが異口同音に言うのは、人を飽きさせない巧みな話術と頭の回転の早さである。私も同感だ。


加えて自分本位というか傍若無人ぶり。こんなエピソードが残る。マルコス時代、日本のビジネスマン一行のレセプションが盛り上がり、帰国の時間が迫ってきた。みな気が気ではない。ところがイメルダは「飛行機? 待たせておくから大丈夫よ」と悠然と言ってパーティーをつづけた。実際、空港では出発を遅らせた飛行機が一行を待っていたという。


これがありそうな話に思えるのもイメルダだからだろう。彼女が敵愾心を燃やしたコラソン・アキノ元大統領は、いくら何でもこんなことは考えられない。ちなみにイメルダが日本の客人たちの前で愛唱する十八番は、見よ東海の空あけて旭日高く輝けば…の「愛国行進曲」という。


イメルダは娘時代から美声で鳴らした。それはマルコスだけでなく国民を虜にし、さらに政権絶頂期には、美貌もあいまってジョンソン米大統領はじめ世界のVIPの心をも捉えた。歌の効用といったものをイメルダはよく心得ていた。


ファースト・レディーとしてのイメルダ最後の絶唱は、恐らくマラカニアン宮殿脱出の日であったか、バルコニーで歌い上げたダヒルサヨ(あなたゆえ)だろう。国民が心を動かされることはもはやなかったけれど。


ハワイでのインタビューで印象に残ったことの中から二つのことを書いてみたい。


一つは同盟国アメリカについて。もう一つは彼女の性格-人生への飽くなき闘争心とそれを支える楽天性についてだ。


86年2月25日夜。この日、私は外信部の夜勤当番だった。


2月7日に繰り上げて行われたマルコスとアキノの大統領選挙はその後、政府系の選挙管理委員会はマルコス優位を、国際NGOなどによる選挙監視団集計はアキノの勝利を発表し、混乱の様相を深めていった。そして22日、不正選挙を糾弾する人々がエドサ大通りに繰り出す中、ホナサン中佐ら国軍改革派が決起し、エンリレ国防相とラモス副参謀長の軍中枢も合流した。


ついに25日午前、アキノが大統領就任を宣誓する。事ここに至り、大統領官邸であるマラカニアン宮殿に籠もるマルコスら一族の去就は大団円を迎えようとしていた。


「ヘリが飛び立ったそうです」

「行き先は」

「分かりません」

「原稿、どうしますか]

「もう行き先にこだわる必要はない」

「そう、宮殿を出た事実が重要。マルコス政権は終わった」


朝刊の締め切り間際、こんなやり取りが東京の外信部とマニラの特派員との間に飛び交い、結局、夫妻の脱出先は分からぬままに降版したと記憶する。それに比べると独裁でもルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻の逃避行は、クリスマスの頃にもかかわらず刻一刻と外電が報じた。ちょっと不謹慎な表現になるけれど、手に汗を握るような面白さがあった。


◆◇私たちは米軍機で誘拐されたのよ◆◇


では当事者たちにとって脱出は実際はどのようだったのだろうか。ハワイのイメルダは悔しそうに言った。


「私たちは米軍機で誘拐されたのよ。小型機なので北イロコス(ルソン島北部、マルコスの故郷)へ行くと思っていた。(飛行機が)大きかったら疑ったのに」


マルコス自身も87年7月5日号のアジアウィーク誌でこう述べている。


「私はボスワース(当時の駐比アメリカ大使)に家族を避難させたいとお願いした。だが(米側は)私が同行しなければ家族はお連れ出来ませんと言った。私は家族に別れを告げるために行ったが、そこでヘリに引っ張りこまれた。…着いたのはクラーク米軍基地だった。われわれはラワグ(北イロコス州の州都)に行くことで(米側と)合意した。それで飛行機に乗った」


米軍に身柄を預けた以上、行き先は米軍次第だ。夫妻は国外に連れて行かれる可能性をなぜ考えなかったのだろうか。


夫妻がラワグ行きを疑わなかったことは、一家がマラカニアン宮殿脱出の際に持ち出した現金の内、米ドルはたった1570$なのに、比ペソは約2800万ペソ(当時のレートで約2億円)もあったこと一つ取っても分かる。


やはり米国を信じていたのか。イメルダにして見れば、だからこそ余計悔しい。


マルコス夫妻が北イロコスを望んだ理由は明らかだ。ひとまず故郷へ撤退し、巻き返しを図るというものだろう。


しかし米国はマルコスのこんな胸の内は先刻承知のはずである。夫妻をラワグへ行かせるのは危ない。政情不安を作り出す。


そのラワグを、私はマニラ特派員だった88年2月に取材で訪れたことがある。州知事はじめ人々は公然とアキノの悪口を言う一方、マルコスを称賛し、懐かしんでいた。アキノ政権下にあっても、北イロコスは依然としてマルコス派の牙城だった。


再びイメルダのインタビューに戻る。


「フェルディナンドに出会えた私の人生は幸せでした。でも後悔がないわけではない。数少ない後悔の一つは同盟国を信じ過ぎたこと。どことは言いませんけれど。なぜそれを後悔とするかですって? だってマルコスを裏切ったのは、結局、彼の敵たちではなかったわ。彼をつぶそうとしたのは友人たちや親戚、そして同盟国だったのよ。すべてのトラブルは友達がもたらした。欺かれたのね」


イメルダは友人や親戚の固有名詞こそ出さなかったが、誰かはすぐ分かる。反旗を翻したラモス副参謀長はマルコスのまたいとこ、エンリレ国防相は長年の盟友、そして同盟国とはもちろん米国である。


いまいるハワイが米国であることなどおかまいなしに、自分たちを騙した米国への悔しさをぶつけるイメルダ。彼女の感情の起伏の激しさは、そこが芝居の舞台であるかのような錯覚を誘った。実際、イメルダは夫の病状になると打って変わって涙ぐみ、祈るような切々とした口調になったのだった。


◆◇「勝者は私」――生来の闘争心と楽天性◆◇


しかしハワイのイメルダを支え貫いていたのは、結局のところ生来の闘争心であり楽観性だったと思う。闘争心とは、例えばアキノ大統領によるマルコス帰国禁止措置を覆そうという戦いであったり、不正蓄財や詐欺罪容疑など、当時すでに始まっていた裁判に対する闘争であったりなどだ。しかもイメルダは「勝者は私」と言って憚らなかった。


「アキノ大統領は生死にかかわらずマルコスの帰国は許さないという強硬路線。私も絶対に彼を連れて帰るという強硬路線。どちらが勝つでしょう。もちろん私は勝利を確信しています」


「私たちのことをドロボウ(日本語で)と言うけれど彼女こそドロボウよ。彼らは私たちの国をとっただけでなく、フェルディナンドの命まで取ろうとしている。ゆっくりと残酷に。もし私が日本人だったらきっとハラキリ(日本語で)をしていたでしょう。でも私はハラキリなんてしない。戦います。私はオプチミストでポジティブな人間です。嫌疑は晴らされます。私やフェルディナンドがフィリピンに対して行ったことを評価するのは歴史です」


ハラキリはともかく、ドロボウという日本語をどうして知っているのか尋ねると、イメルダは日本の新聞のマルコスについての記事を翻訳してもらい知ったのだと答えた。


イメルダがどこまで本気で潔白を信じていたかは分からない。裁判に駆け引きはつきものだ。それにこの位の強気や自己正当化がなければ、逆風の中で身が持たないだろう。


その意味で政権崩壊後のハワイのマルコスとイメルダの人生は対照的だった。当初、政権奪還に意欲満々だったマルコスは、反攻の夢がしぼんでいくのと比例するように精気を失い、病気がちとなり、入退院を繰り返すようになっていった。「患者(マルコス)は治そうという気力を失ってしまっているようだ」と、入院先の聖フランシス医療センターのある医師は語っている。


イメルダは逆だ。


ハワイの地元紙ホノルル・アドバタイザーのウォルター・ライト記者によれば、ハワイにやって来た最初の年の誕生日(7月2日)に行った単独インタビューでイメルダは「生きていても仕方がない。死にたい」と言っては泣いてばかりいた。


それから3年5カ月あまり。「自分はいまやマルコス番」と苦笑するウォルター記者はこう言っていた。


「イメルダ夫人はマルコス氏が病気になってからの方が、むしろ元気になったように思えます。いまや意気盛んで、自分の意志で生きているという感じさえ与えます」


◆◇発泡スチロールの空の弁当箱◆◇


かつて外国プレスに「鋼鉄の蝶」と形容されたイメルダは自分の役割を見出し、機械で生かされているのも同然となったマルコスに代わって、再び羽ばたき始めていた。たくましいというほかない。


マルコス政権時代にフィリピンで出版され、事実上発禁となった『実録 イメルダ・マルコス』(カルメン・ナバロ・ペドロサ著 めこん)は、イメルダの出自から生い立ち、大統領夫人となるまでを描いた「イメルダ・マルコスの語られざる物語」(原題)だ。


ひとことで言えばイメルダは没落したロムアルデス家の期待を背負い、自らも美貌と才気でそのことを自覚し、見事に期待に応えた女性だ。同書には、《勝利は決意によってもたらされるとイメルダは知った》といったような、ハワイのイメルダを彷彿とさせる表現が随所に見られる。


イメルダを理解するのに格好の書と思えるが、イメルダは気に入らなかった。訳者あとがきによれば「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」「資産家の名門ロムアルデス家の娘」など、すでに大統領夫人としての虚像が一人歩きしていたイメルダには「書いてはいけない物語」だったのだ。出版後、フィリピンにいられなくなったペドロサは渡米、さらにロンドンに移った。


今回、ペドロサのその後を知りたくてインターネットで検索すると、分かったのは、やはりジャーナリストとして活躍する娘の方だった。カルメンは1962年にマニラ・クロニクル紙の記者になったのがジャーナリストの始まりだから、親子二代となる。


カルメンはもう現役を引退しているのだろうか。母国で元気一杯のイメルダを、どこでどのように見ているのだろうか。


再び「ハワイのイメルダ」に戻ると、映画のシーンのように瞼に焼き付いた一つの光景がある。


病院でのインタビューの後、「写真は別の場所で」とこちらの要望に快く応じてくれたイメルダの言う通り、私は日をあらためてマキキ・ハイツ・ドライブの住まいを訪ねた。


スペイン風の見事なカサ・ブランカ(白い家)で、広々とした芝生からはホノルル市街が一望の下にある。かつてフィリピンの駐バチカン大使を務めた夫妻の友人、タントコ氏の所有と聞いた。


この日のイメルダは撮影とあって、もう家政婦さんスタイルではなかった。華美でない程度にドレスアップし、気さくに家の中も案内してくれた。趣味の良い高級インテリアの数々とともに、壁にはマルコスと母親やファミリーが全員集合した写真などが飾られ、往時をしのばせていた。


けれど瞼に焼き付いた光景というのはそれらではない。イメルダの案内で屋内を歩きがてら、ふっと目に入った部屋の片隅のテーブルに無造作に積まれた発泡スチロールの弁当箱だ。瞬間、私は見てはいけないものを見てしまったような罪悪感を覚えた。心落ち着かぬ、慌ただしい亡命生活を象徴するような寒々しい空の弁当箱の山。イメルダの侘しさをかいま見たような気がしたからだ。


もっとも、これは私の感傷に過ぎないかもしれない。「鋼鉄の蝶」に感傷は無縁と人は言うだろう。


◆◇そこにはマルコスの故郷があった◆◇


ところでイメルダはハワイ行きを米国に騙されたと怒ったが、いま考えればハワイという選択は夫妻にとって悪くはなかったし、考えようによっては米国の最後の情けだったのではないだろうか。そんな気もする。


なぜなら当時、ハワイには全米最大ともいえるフィリピン・コミュニティがあり、中でももっとも多いのはマルコスと故郷を同じくするイロカノたちだった。望んだ北イロコスに行けなかったが、ハワイには懐かしい古里の匂いがあったはずである。


実際、ハワイの比コミュニティは母国とは違って、マルコス一家の到来をもろ手を挙げて歓迎した。その後も、ホノルルのダウンタウンにあるカトリック教会で人々はマルコスの病気回復を祈り、心配して病院を訪れる人も少なくなかった。決してマルコス・クローニー(取り巻き財閥)だけが歓迎したわけではなかった。


前日たまたま入ったフィリピン・レストランのウエートレスに病院で会ったこともあった。非番の日は病院へ行き、看病を手伝っていると言った。


やせた土地で目ぼしい産業もなく、北イロコスの人々は生計をハワイへの出稼ぎに頼らざるをえなかった。先にも書いたように、州都ラワグを訪れて痛感させられたのは、人々がいかにマルコス時代を懐かしんでいるかとともにハワイとのつながりだった。


どんな田舎でも、家にはアメリカ製品や食品があり、親戚の誰かがハワイにいた。アメリカ製品は彼らからの仕送りだった。


マルコス時代、ホノルルとラワグには直行便も飛び、移民たちは里帰りのたびに空港で赤いじゅうたんにレイで歓迎された。晴れがましくうれしい待遇だったろう。


フィリピン社会の伝統的価値観を語る言葉にウタン・ナ・ロオブというのがある。ウタンは負債、ロオブは内心といった意味で、日本語では義理もしくは恩義に近いとされる。ちょうど元首相の田中角栄と新潟県人の関係のように、北イロコスの人々がマルコスにウタン・ナ・ロオブを感じたとしても不思議ではない。


フィリピンではウタン・ナ・ロオブは一生つづき、その恩義を忘れた人間はワラン・ヒヤ(恥知らず)と非難され、ワラン・ヒヤと言われるのは人々にとって最大の屈辱なのだともいう。


州都ラワグから首都マニラは遠い。遠さとは単なる距離ではない。フィリピンは一つという国民的統合からも当時はまだ遠かった。マニラの貧しいスラムも、反政府運動や言論への苛酷な弾圧も、ラワグの人々には外国の出来事も同然だったのではないだろうか。マルコスの恩義こそ身近に実感された。


部族社会リビアにおけるカダフィ政権の崩壊と逃亡・潜行中らしいカダフィのニュースに、北イロコスとマルコスの関係があらためて思い出された。


◆◇なくならない政治家を甘やかす土壌◆◇


そろそろ締めくくらなければならない。


私がマルコス夫妻のいなくなったマニラに特派員として滞在したのは10カ月ほどにすぎないが、その間クーデター未遂を7回も取材した。このことが象徴するように、アキノ政権は著しく統治能力を欠いた。問題が発生すると「祈りましょう」がアキノの口癖だと人々は天を仰いだ。


こうなると国民はまったく現金なもので、「イメルダはカルチャー・センターやホテル、橋など建物を一杯残したが、アキノは橋一つ作らなかった」となじる声も聞かれた。


それはちょっと違うだろうと私は思う。確かにアキノ政権にはさしたる成果がない。しかし、当時のフィリピンに求められていたのは、何よりも国民和解ではなかっただろうか。そう、癒しの期間。それが過渡期政権のアキノの最低限の役割だったのかもしれないと。


次のラモス大統領は独裁ではなかったが、仕事師だった。マラカニアン宮殿の医務室には、アキノ時代と違って胃薬をもらいに駆け込む職員が増えたという笑い話も聞いた。まともに仕事をするようになったからというのだ。


マルコス後で再選を望まれた唯一の大統領だった。しかし長期独裁に懲りたフィリピンでは憲法が再選を許さない。良い大統領でもダメ。これもマルコス独裁のツケである。


次のエストラーダ大統領は不正蓄財疑惑で失脚、つづくアロヨ大統領も期待外れに終わった。独裁の負の遺産、ウタン・ナ・ロオブに象徴されるしがらみ、加えてフィリピン人の寛容さ、これらがあいまって政治家を甘やかす土壌はなくならない。


いや、日本も他国のことを言っている場合ではないが。


こうして2010年6月、アキノの長男ベニグノ・アキノ三世が大統領に就任した。


内政では汚職や腐敗の撲滅と貧困削減というフィリピンの長年の問題とともに、ミンダナオ和平も課題だ。


外交面では南シナ海をめぐって中国との緊張がつづいている。母の時代に基地閉鎖など安全保障面で後退した対米関係は、皮肉にも中国ファクターによって再び強化の方向に転じた。母に比べて息子の注目度は低く、その力量もいまはまだ未知数だが、確かなことはマルコスのような独裁者になる可能性は限りなく低そうなことである。


(産経新聞特別記者 2011年9月記)

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