2010年08月19日 00:00 〜 00:00
成田憲彦・元首相秘書官・駿河台大学学長

会見メモ

シリーズ研究会「消費税はなぜ嫌われるのか」③は、1994年2月、細川護煕首相が未明の記者会見で発表したものの、撤回に追い­込まれた国民福祉税構想について、細川首相政務秘書官だった成田憲彦・駿河台大学長が語った。細川首相を中心に、小沢一郎・新生­党代表幹事、武村正義・官房長官、斎藤次郎・大蔵事務次官ら当時のキーパーソンの動きを振り返り、「未明の会見」に至る流れを詳­しく説明した。

成田さんは、まず「政策論的な流れ」として、景気対策の所得減税を迫られ、財源を確保しなければ予算編成ができない構造にあった­ことが基本的な枠組みと述べた。細川首相は①所得減税をやる②赤字国債を財源にするのは無責任③増減税時期の一定の分離が必要④­消費税の名称は適当ではない――などを選択し、94年1月15日には大蔵省に具体案の取りまとめを指示した、という。
次に「政治論的な流れ」として、消費税引き上げの「大蔵省の執念」を語り、政治改革法案成立が遅れ、2月11日にセットされてい­た日米首脳会談が迫るなどスケジュールの制約があったことも強調した。記者会見に先立つ2月2日の動きを当時のメモをもとに分刻­みで解説し、「大蔵省がペーパーを説明し、細川さんは初めて『国民福祉税』『3%から7%へ引き上げ』を目にした」と重要な一連­の会議に首相秘書官として同席した立場から証言した。
さらに、当時の報道について、小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長が実権を握っていたとする「『一一』主導論」や「社­会党・武村官房長官正義論」「首相漫心論」などと名付け、「事実は違う」と反論した。質疑応答では「当時、予算編成をあきらめて­世論を納得させる手段を取った方がいいと判断する戦略性を備えた政治能力が日本には育っていなかった」と答え、小沢一郎論や政権­交代についても語った。
司会:原田亮介・日本記者クラブ企画委員(日本経済新聞)


会見リポート

国民福祉税 未明会見の内幕

清水 功哉 (日本経済新聞編集委員)

1994年2月3日未明の記者見で細川護熙首相が突然打ち出し、その後反発を受けて引っ込めた国民福祉税構想。騒動の裏側に何があったのかを、当時首相の政務秘書官だった成田駿河台大学学長が語った。

新たな税金を導入する構想が出てきた背景には、景気対策としての所得税減税の財源確保という政策論的な流れと、消費税率引き上げに向けた旧大蔵省の執念など政治論的な流れがあったと整理。そのうえで、記者会見に至るまでの2月2日午後以降の動きを、当時のメモをもとに詳しく明らかにした。

新税の名称や税率、導入時期などを書いた紙が旧大蔵省から届いたのは、記者会見の5~6時間前。細川氏は導入時期を1年遅い97年度に変えて会見に臨んだというが、官僚主導で性急に話が進められたことを改めて印象付ける内幕話だ。

背景には、2月11日の日米首脳会談までに景気対策をまとめなければならなかったという日程上の制約もあった。ただ、成田氏は「4日目に総理決断というような時間的余裕があれば、かなり展開は違ったかなという感じはある」と振り返った。数日間かけて徐々に決めれば、国民の受け止め方は異なっていた可能性もあるというわけだ。

興味深いのは、細川氏は違った見方をしていること。今年1月に日本経済新聞に連載された「私の履歴書」で、「問題は唐突だといわれた決定の手続きよりも、政策の手順が間違っていたといわざるをえない」と総括した。成田氏が詳しい真意を本人に聞いたところ、行政改革の先行ないし行政改革断行の確約が必要だったと答えたという。

性急な手法に問題があったのか、政策の順番が間違っていたのか──。どちらの解釈が正しいのかはともかく、「未明の会見」に至る経緯が、政策決定プロセスに関する重要な教訓を残したことは事実だろう。


ゲスト / Guest

  • 成田憲彦 / Norihiko NARITA

    日本 / Japan

    元首相秘書官・駿河台大学学長 / President、Surugadai University

研究テーマ:消費税はなぜ嫌われるのか?死屍累々の教訓

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