ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

旧ソ連・東欧の民主化/足でかせいだ大統領制草案/抜かれて抜いた混乱期取材(大野 正美)2024年2月

 もう35年ほども前のことになるが、民主化による東欧諸国の旧ソ連社会主義圏からの離脱とそれに続くソ連の崩壊、新独立国家のその後の困難な歩みを、東京から派遣された記者、さらにはモスクワ支局員として現地で取材した。現在はロシアによるウクライナ侵攻や、パレスチナ自治区ガザ地区でのイスラム組織ハマスとイスラエル軍との激しい戦闘に象徴される新たな時代の転換期にある。そんな時だからこそ、一つ前の激動の時代の取材を振り返るのも意味があるのではと考え、心に残っている出来事を書いてみたい。

 

◆切れたビザ、革命直後の国

 1989年の秋から続いた東欧諸国の民主化に背を向け、ニコラエ・チャウシェスク大統領の独裁体制が続いていたルーマニアのティミショアラで民衆の反体制デモと治安部隊による武力鎮圧が起きたのは、12月16日のことだった。当時、筆者はハンガリーの民主化などを取材した約1カ月半の東欧出張から戻り、外報部で内勤をしていた。たまたまルーマニアの観光ビザを有効期限ぎりぎりではあるが持っていたので、「いますぐ行け」となった。会社からオートバイを出して自宅から運ばれたビザ付きのパスポートだけを手に、その夜のうちに成田空港から北回りでオランダのアムステルダムに向けて飛び立った。

 チャウシェスク夫妻の処刑に行きつく衝撃的なルーマニア革命、90年に入って圏内での交換通貨ルーブルの廃止を決めて組織の消滅へとつながった1月のブルガリア・ソフィアでの経済相互援助会議(コメコン)の定例会議、2月から3月にかけてのソ連での共産党の独裁放棄と大統領制の導入、ドイツ再統一を前にした3月18日の東独での自由な議会選挙までを追うことになる3カ月超の出張は、こんなふうに始まった。

 アムステルダムからルーマニアの隣国ハンガリーの首都ブダペストに着いたものの、国境は閉鎖されていた。再開を待つうち、22日にチャウシェスク体制は崩壊し、観光ビザの有効期限も過ぎる。ルーマニアは新政権とチャウシェスク子飼いの治安部隊との間で内乱状態に陥ったが、間もなく国境だけは開き、切れた観光ビザを持って首都ブカレスト行きの国際列車に乗り込んだ。

 そうして着いた国境検問所で係官は、期限切れの観光ビザをじっと見つめて考えた後、何も言わずに入国許可のスタンプを押してくれた。音に聞こえたチャウシェスクの強権体制からの鮮やかな転換である。「レジーム・チェンジ」という言葉が持つ意味合いを、身にしみて実感した瞬間でもあった。列車は首都に向けて走り出したものの、沿線からは自動小銃の乾いた射撃音が断続的に聞こえる。首都では、自動小銃の射撃音だけでなく銃弾の光の軌跡がはっきり見え、群衆が逃げまどっていた。

 

◆冬のコート姿の単独会見

 革命からわずか3日後のチャウシェスク夫妻の処刑に驚きつつ、事態を追っていると、東京の外報部から「新政権である救国戦線評議会トップのイオン・イリエスク議長の会見を取れ」と求めてきた。初めての地で有力なつてもなく、とりあえず救国戦線の本部に行って入り口付近のロビーにたむろしていると、当のイリエスク議長が自動小銃を持った護衛を数人連れて歩いてくる。「機会は今だけ」と議長に突進してとりすがり、ロシア語で質問した。

 筆者は大学でロシア語を学び、この3年前にはソ連のレニングラード大学にも1年留学したが、正直かなりさびついていた。だが、ソ連圏の共産党ノーメンクラトゥーラ(特権官僚)だった議長は当然ロシア語がよくできて、丁寧に答えてくれた。記事には「新政権議長に単独会見」との見出しがついたが、写真の議長と筆者が冬のコート姿だったのは、こうした事情による。

 ルーマニア革命後に転戦したコメコンの定例会議の取材も終えると、外報部から今度はモスクワ支局に応援に行き、民主化の問題が先鋭さを増すソ連政治の動向取材のアシストに当たるよういってきた。それで2月の共産党中央委員会拡大総会を前にソ連入りしたところ、いきなり当時の斎藤勉・産経新聞モスクワ支局長に「ソ連、共産党独裁を放棄へ」と1990年度の新聞協会賞に輝くスクープを見舞われてしまった。

 こちらの当時の支局は、応援組を含めて3人の面々がみなロシア勤務を始めたばかりという陣容で、すぐソ連共産党の奥深く入り込み、重要な情報をつかむことなど困難極まりない。「なら足を使おう」と、中央委の拡大総会が始まると会場となるクレムリンの旧最高会議幹部会ビル近くのスパスキエ門で張り番をし、寒気に足踏みしながら出てくる中央委員たちの話を聞いた。さらにクレムリン内の議場で開催中なら記者証で自由に動き回れる人民代議員大会や最高会議の場を利用し、代議員らの間に知り合いを広げていった。

 

◆張り番、議会回りから成果

 そうこうするうち共産党の独裁放棄は決まったものの、3月の人民代議員大会で創設される方向となった大統領制度が次の取材目標として浮上してきた。行政と議会が一体化したソビエトの上に共産党が君臨してきたソ連の国家機構に、3権分立の明確化を狙って初めて導入される大統領制の内容は皆目わからず、支局勢が総力で取材に当たった。

 筆者は人民代議員大会や最高会議で知り合った代議員らに、「大統領制の草案が出たら、中身を教えてほしい」と頼んで回った。だが、よい反応はさっぱりない。あきらめかけたある夕刻、支局に上がると「エストニアの人民代議員という人から、大統領制の草案が手に入った、と連絡があった」と告げられた。はやる心を抑えて代議員氏に会いに行くと、「頼まれていたからね」と分厚い草案の束をドサリと渡してくれた。どこが草案を入手して報じてくるかもしれず、夜っぴて支局勢で原稿を書き、夕刊に叩き込んだ。

 体制が大きく揺れ動き、自由な記者活動の幅も広がったこのころ、在モスクワの日本メディア陣も産経新聞の「共産党独裁放棄」のほかに、ゴルバチョフがソ連再編への望みを託した「新連邦条約」草案を共同通信がスクープするなど激しくしのぎを削った。それはソ連の経済情勢が著しく悪化に向かうなかでの厳しく骨の折れる仕事だったが、同時にまっとうな市民社会と取材環境が確実に広がっていきつつあることが心の底から実感される日々だったのも事実で、底が抜けたように青く澄み切った空に似た解放感があった。

 

◆今も生きるソ連の大統領制

 「新思考」のもとでのソ連軍の新たなあり方をくわしく語ってくれたセルゲイ・アフロメーエフ元参謀総長・大統領顧問との会見や、ソ連崩壊後の新生ロシアでのことになるが、下院議員に当時のグレゴリー・カラシン外務次官が平和条約締結後の歯舞・色丹両島の引き渡しを約束した1956年の日ソ共同宣言の法的有効性を確認した文書などは、取材先とのそうしたつき合いのなかで報じることができた。

 時が過ぎてみると、ソ連共産党は一党独裁放棄の翌年にはなくなり、「新連邦条約」もけっきょく結ばれることなくソ連は解体した。でも、筆者たちが初めて内容を世界に伝えた大統領制度は、初代のエリツィンから現在のプーチン大統領にまで権限を著しく強化しながらロシアに引き継がれ、現代の世界情勢にも大きな影響を及ぼす重要な要素であり続けている。この「大統領制」に乗るロシアの最高権力者が世界のなかで今後もどんな役割を果たすのか、引き続きウオッチしていきたい。

 

おおの・まさみ▼1955年東京都生まれ 80年朝日新聞社入社 外報部 3度のモスクワ支局 論説委員 編集委員 根室支局長などを経て 2022年退社 現在 ネムロニュース東京支局記者

ページのTOPへ