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ロッキード事件の大波/百貨店再生の神様生む(足立 則夫)2022年11月

 1976年2月の初め、百貨店、松屋の経営幹部は、東京都内の某所で途方に暮れていた。重要な契約を取り交わす予定になっていた国際興業社主、小佐野賢治が待てど暮せど姿を現さなかったからだ。

 

事件はじけ、支え失う松屋

 小佐野がなぜ、約束をすっぽかしたのか。2月4日、米国の上院多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社が航空機の売り込みをめぐり、巨額の政治献金をイタリア、トルコ、フランス、日本などでばらまいていたことが明るみに出る。右翼の大物、児玉誉士夫にも献金が贈られていたことが公表された。

 この時点で小佐野は、ハワイのホノルルに飛んでいた。2月7日付朝日新聞夕刊に、小佐野がロッキード事件との関係を否定した電話インタビュー記事が載った。これを見て、松屋の経営幹部は、ようやく小佐野が置かれた事情を理解したのだった。

 結果的にロッキード事件は、松屋にとって実に幸運な出来事になった。その理由を理解するには、当時、松屋が直面していた深刻な問題を、まず頭に入れておく必要がある。

 松屋のオーナー、古屋家は山梨県出身のいわゆる甲州商人だ。70年代初め、同じ甲州商人の小宮山一族が経営する平和相互銀行グループの中央興産が開発中のゴルフ会員権を、松屋が販売し始めた。ところが、73年の石油ショックを機に中央興産が経営危機に直面。松屋は自らの信用を維持するため、中央興産の債務を次々、肩代わりする危機的状況にあった。

 助けを求めたのが、同じ甲州商人の小佐野だった。ゴルフ場の経営を支援してもらう代わりに、松屋の株の一部を国際興業に譲渡する契約を結ぶ手はずだったのである。しかし、ロッキード事件によって小佐野との約束は破棄され、彼が松屋の経営を牛耳ることはなくなったのだ。

 

失意の山中氏、伊勢丹から

 松屋の経営幹部が次に打った手が、百貨店経営全般の改革のため、他社から有能な人材をスカウトすることだった。白羽の矢を立てたのが、伊勢丹の専務取締役、山中鏆。団塊世代対象のティーンエージャーショップなど次々と革新的な販売戦略で「ファッションの伊勢丹」を牽引して来た人物だ。

 当時、伊勢丹内部からは、何事にも慎重でトップダウン経営を志向するオーナー社長、小菅丹治と、即断即決主義でボトムアップ経営を志向する山中との不協和音が漏れてきていた。脈があると踏んだ松屋の経営幹部が山中に打診すると、首を横に振る。次に小菅に相談する。首を縦に下げたのだ。小菅から、松屋行きの引導を渡された山中は、数日間、やけ酒を飲んで過ごしたという。

 76年の5月になって、山中は松屋の副社長に就任した。54歳だった。このころ、私は日本経済新聞の流通経済部で流通業界の取材をしていた。前任の社会部の仲間がロッキード事件の取材に奔走しているのを横目で眺めながら、できれば社会部に戻って、一大スキャンダルの真相に迫りたい、などと考えていた。松屋の人事については、ボーっと発表を聞くだけのボンクラ記者だった。

 後日、当時の松屋の経営幹部から、ロッキード事件の勃発により、経営の流れが大きく変わったことを聞いたときは、自分の取材の甘さを大いに反省した。なぜ、山中のスカウトに至ったのかをしつこく嗅ぎまわれば、その時点で読み応えのある記事が書けたはずだった。

 伊勢丹の役員時代の秘書、野口芳江だけを伴ってやってきた山中は、連日、売り場を丹念に回った。だが、2カ月たっても、3カ月たっても、いっこうに売り場を改めようとはしない。毎月の売り上げは低迷したままだ。山中を投入したからと言って、結局、何もできないのではないか。疑問視する声も出始めた。

 私自身も、売り上げなどの表面的な動向に目を奪われていた。いかに山中が有能でも、どん底の松屋を浮上させるのは難しいのではないか、という考えに傾いていた。

 

社員全員との対話作戦

 ところが、である。山中マジックは、すでにそのころ、仕掛けられていた。労働組合の協力を取り付け、1年をかけ全社員1600人余りとの対話を進めていた。一度に15人から20人が集まり、店のどこに問題があるかを話し合う。ざっと2時間、山中は耳を傾けた。対話を通じ、松屋の抱える問題の所在を掌握し、第一線の従業員との人間関係を深めていったのだ。

 次に改革のためのリニューアル委員会を発足させた。テーマ別の小委員会は全員参加方式で、小委員会の中には、山中から10回も計画の練り直しを命じられたところもあった。社員全員に、リニューアル計画の責任の一端を担わせようとしたのだ。

 同時に、米国の店舗設計会社や、国内のデザイン会社なども巻き込み、銀座店の思い切った全面改装計画、さらに会社のマークなどのイメージを変革するCI(コーポレートアイデンティティー)計画も進めた。計画の内容はすべて社内に張り出し、全社員が共有した。

 78年9月末、銀座店がリニューアルオープン。山中マジックは効果を現し、松屋の業績はその翌年度からV字回復し、上昇気流に乗った。景気の追い風もあり、問題のゴルフ場も完成にこぎつけ、経営の圧迫要因ではなくなっていた。ボンクラ記者の当初の予想は見事に外れ、再建計画は功を奏したのである。

 その後、山中は社長、続いて会長の座に就いた。早晩、松屋中興の祖としてリタイアする、とみられていた。90年春、今度は、東武鉄道グループの総帥、やはり甲州商人の根津嘉一郎がスカウトにやってきた。東武百貨店池袋本店の再建の陣頭指揮を取ってほしいというのだ。

 68歳。「会長のような名誉職に就いていたらボケてしまう」と言って、根津の要請を受け入れ、東武百貨店の社長に転じる。ここでも社員との直接対話作戦を実践し、全社一丸となって「親切一番店」を目指す。その甲斐あってか、日経流通新聞99年1月30日付の顧客満足度ランキングでは、首都圏の百貨店の中で東武百貨店は、高島屋に次いで、三越と並んで「第2位」に食い込んでいた。

 

この人のため、と思わせる

 東武百貨店に移って5年、がんに侵され胃を摘出し、99年9月26日、帰らぬ人となった。享年77。評伝の記事を書く段になって、ふたつの疑問が頭をもたげた。

 「百貨店の再建の神様」になった最大の要因は何だったのか。多くの社員をひとつの目標に向かわせる人心掌握術にたけていた点か。戦時中、情報将校を教育する陸軍中野学校で学んだ戦術を生かしたのだろうか。だが、山中が昼食時、よくひとりで出かけていた東武百貨店事務棟の地下にある中華山口の支配人の話を聞いて考えが変わった。

 「みんなで食べろよって、袋入りの菓子をよく差し入れしてくれました。胃がんの手術の後も、自分は食事をしないのに店をのぞき、声をかけてくれたのです。だからうちの従業員は全員が山中さんのファンでした。もう会えないと思うと……」

 この人のためなら、と思わせる温かい人間性こそが正解だったのだ。

 もうひとつは、もしロッキード事件があの時期に表面化していなければ、再建の神様にはなっていなかったか、という疑問。答えは「否」。遅かれ早かれ、小売業の神髄をつかんでいた山中のような人材は、他社からスカウトされていたに違いない。(本文敬称略)

 

あだち・のりお▼1947年東京都青梅市生まれ 71年日本経済新聞入社 社会部 流通経済部 婦人家庭部記者 日経ウーマン編集長 生活家庭部長 生活情報部特別編集委員 現在 客員編集委員 著書に『ナメクジの言い分』(岩波科学ライブラリー)『遅咲きのひと』(日本経済新聞社)など

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