ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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震災10年は節目ではない/「心の復興」に寄り添って(元石巻日日新聞社報道部長 武内 宏之)2021年3月

 日本記者クラブ賞特別賞受賞―この連絡を受けた時のことは、今でも覚えている。震災から1年がたち、地域・会社の復旧復興の方向もみえてきて、個人的にも気持ちに余裕が出てきたころだった。その一報に触れ、「私たちの活動を見守ってくれている〝仲間〟がいたんだ」と、なぜか安堵したことを思い出す。後輩記者たちも見守られている〝安心感〟とその後の取材活動の〝励み〟にもなったようだ。贈賞式に出席するため訪れた東京は、ガレキが山積みされている被災地から来た者にとって別世界だった。なによりもクラブの事務局スタッフ、会員の皆さんが温かく迎えてくれて、思い出深い式となった。

 東日本大震災から3月11日で丸10年になる。津波直後のガレキと化した街から復興のまちづくりでできた新しい街を見ると、アッという間の歳月だったという思いがある。一方で震災から10年を機にこれまでの取材メモ、写真をめくっていると、あの時のこと、あの人の顔が止めどなく思い出され心が重くなる。

 震災後、個人的なテーマとして津波で「家を失った人」「仕事を無くした人」、そして「大切な人を失った人」の三つを掲げて取材を始めた。時間の経過とともに、被災者は避難所から仮設住宅、現在は復興住宅に入居し住環境は整ってきた。仕事も復興工事などで土木建築業を中心に、職種さえ選ばなければ仕事に就くことができるようになってきた。残るは、家族や友人、知人らを亡くした人たちはどのように心を癒し、前を向くようになるのか、時間を見つけては訪問し話を聞いてきた。定年退職後は、遺族と一緒に語り部活動をすることもある。また、新聞社を退き一市民として迎え入れてくれたのか、遺族らも気兼ねなく心の奥底にある思いを話してくれるようになった。

 

■「私の中に2つの時計が」

 

 久しぶりに津波で長女を亡くした母親のところを訪ねた時に話してくれた言葉だ。「私の中には2つの時計があります。一つは震災の時に止まった時計、もう一つは今を刻んでいる時計です」。この10年間長女のことは一日たりとも忘れたことはないという。もう一つの時計は家事、そして次女の子育てに追われる日々を止まることなく刻み続けている。

 母親は今、語り部活動をしている。依頼を断ったことはない。「もう二度と私たち家族のような思いをさせたくない」「語り続けることで、私の中で娘が生き続けるような気がするのです」とその理由を語る。熊本地震の時は募金活動をし被災地に送った。支えられる側から支える側に。その姿に力強ささえ感じる。

 「復興は一生だ」。仮設住宅に入居していた時に知り合った高齢の男性がぽろっと漏らした一言だ。近所付き合いが苦手で、ほとんど部屋で一日を過ごす。家族の遺影を見ては、「俺も間もなくそっちに行くからな」が口癖になっているという。この男性は体調を崩し、現在入院している。

 

■遺族間に精神的不調が再発

 

 遺族らの取材を続けていて、一昨年の春ごろからまた精神的に不安定になってきていることを感じ始めた。ある大学が復興住宅入居者へのアンケートで、「眠れない」「思い出してしまう」などを訴えている人が約6割あったという発表もそのころだった。以前読んだ本によるとPTSD(心的外傷後ストレス障害)は時間がたってから発症する例もあり、日本の先人たちも「むしろホッと一息つくころ気をつけろ」と言っている。心の傷口がまた開いてきているのだろうか。知り合いの精神科医、カウンセラーにこのことをぶつけてみても、今後の被災者の心を考えるヒントは得られない。

 震災から10年。社会、行政にとって大きな節目になるだろうが、被災者にとってはまた一年を積み重ねていく年にしかすぎないのではと考えてしまう。復興バブル崩壊後の不況にコロナが追い打ちをかけている被災地の地域経済も心配だ。これからは「心の復興」に加え「地域経済」もテーマに加え取材を続けていきたい。

 

 たけうち・ひろゆき▼1980年入社 報道部長 常務取締役を務め2018年退社

 

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 宮城県の地域紙、石巻日日新聞社は、東日本大震災の停電と津波で新聞発行ができない事態に陥ったが、6日間、手書きの壁新聞を作り、避難所にニュースを届けた。極限状況の中、新聞の原点に立ち返った報道として高く評価され、2012年度日本記者クラブ賞特別賞を受賞した。武内氏は当時、現場で陣頭指揮をとった。同社退社後も震災遺族に寄り添う取材を継続している。

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