ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


3・11から10年(2021年3月) の記事一覧に戻る

「被災地からの声」10 年の歩み/同じ質問で「復興の証言」記録(NHK仙台放送局キャスター 津田 喜章)2021年3月

 震災の9日後に始まった「被災地からの声」(NHK仙台放送局制作)は、岩手・宮城・福島の被災地を隅々まで訪ね、出会った方々に「いま一番言いたいこと」を聞く。撮影したら取捨選択せずに必ず放送し、ナレーションも音楽も付けない。VTR以外は、私が背景にある現状や取材実感を述べるだけである。これまで出演した方は4800人ほどで、「カメラは遠慮したい」という理由で撮影に至らなかった方々もいるため、実際スタッフは数万人以上と話をしたはずだ。「震災の証言」を集めたアーカイブは国内にたくさんあるが、この番組は、「復興の証言」を集めたアーカイブである。たった一つの質問で、10年にわたり庶民の復興の歩みを記録したアーカイブは、かなり稀有な存在といえよう。

 最近、被災した年に出会った方々をよく思い出す。夫の遺体が見つかり、カメラに向かって「うれしい」と微笑んだ女性がいた。当時は生きていることではなく、遺体があることが喜びの基準だった。避難所で「お母さんの作ったお弁当が食べたい」と話す息子の横で、情けなさのあまり号泣した母親がいた。カメラに向かって「自分の力で頑張ります」と語った老人は、親戚の家に避難したものの、これ以上迷惑はかけられないと不便な避難所に自ら戻ってきた人だった。仮設住宅の入居要件から漏れて、壊れたままの自宅で暮らす人もいた(今なお住み続ける人もいる)。

 カメラを凝視して「負けません」と語った経営者は、社員を守るため、肉親を失った悲しみを封印して資金繰りに奔走していた。「へとへとに働いて眠りたい」と言った復旧工事の作業員は、経営していた店を流され、今後の不安から睡眠障害になっていた。体力の限界まで働けば眠れるはず…そう信じて汗を流していた。

 また福島では、原発事故当初、津波犠牲者の遺体捜索もできなかった。「とりあえず」という指示で避難したまま、家畜は餓死し、家も店も朽ち果て、田畑は原野に変わった。「家に行きたくて20㌔メートル圏の検問を振り切ろうとしたら、警察に押さえられた」という声も放送した。安全と言われ続けた挙句、「想定外」の一言で片づけられる理不尽さに、カメラの前で収まらない怒りや嗚咽をぶちまける方々が何人もいた。

 

■「根性と尊厳」のアーカイブ

 

 あれから10年…。岩手と宮城では復興事業がほぼ完了し、福島第一原発がある大熊町でも、一昨年から住民の居住が始まっている。海に全てを奪われた漁師たちは生業を復活させ、店主たちは地元の役に立ちたいと、五里霧中で商売を復活させた。多くの支援とともに、人々は一日一日を生き抜いた。我々が記録した声は、東北人の「根性」と「尊厳」のアーカイブである。

 

■台風、コロナ…苦難続く

 

 震災後も東北では、5年前の台風10号、一昨年の台風19号で、多くの人が再び浸水や全半壊の被害を受けた。去年の放送では、釜石市のある店主が、「震災、台風も乗り越えたのに、コロナでこけちゃったら、今まで何のために頑張ってきたのか分からない」と絞り出すように言った。被災地の主力産業はどこも一次産業であり、それに連なる食品加工が経済の要である。昨今の全国的な飲食業界の低迷は、被災地の経済を直撃する。10年でようやく回復した観光も、旅行自粛の影響は計り知れない。いま再び困難に直面した被災地に、「復興五輪」という言葉で何もかも区切りがつくかのような風潮は微塵もない。

 

 つだ・よしあき▼1997年入局 2005年より仙台放送局 故郷の宮城県石巻市が被災 11年より「被災地からの声」キャスター 番組は毎週土曜日10時5分から東北地方で24分間放送(総合テレビ) 2~3人のクルーで取材・撮影し岩手・宮城・福島の全ての被災市町村を十数回まわった 年に一度 避難者を訪ねて首都圏での取材も行う

ページのTOPへ