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自民党金庫番の「もらい湯」(菱山 郁朗)2020年2月

 「一寸先は闇」の永田町に、不思議な癒しの空間がある。凄まじい権力闘争の政治ドラマを演じてきた自民党本部内、階段を二階に上がった右側奥手前の、事務総長室である。部屋の主の名前は元宿 仁(もとじゅく ひとし)74歳で、文字通り党の事務方のトップを担う。政治ドラマの舞台にもなったこの部屋を、癒しの空間にさせているのが、壁に掛かる一幅の大きな油絵である。

「もらい湯」と題したその油絵は、日曜画家である元宿本人が描いたもので、20年近く前に初めて見た時、深い感銘を受けた。雪と月明かりが照らす寒い夜、隣の家でお風呂に入れてもらい、田んぼの畦道を通って帰る幼い4人兄弟の姿を描いている。ふる里の群馬県川場村では、戦後間もない貧しかった当時、薪を節約するために「もらい湯」の風習が残っていた。若くして亡くなった兄を偲んで肖像画を描くつもりが、どうしても上手く描けないためにテーマを変え、何回も重ね描きをしてようやく完成させたものだ。その絵を見た元幹事長の野中広務は、「俺にもこんなことがあった」と目を潤ませていたという。

    元宿氏が描いた油絵「もらい湯」

 

元宿の知遇を得たのは、1975(昭和50)年の初めで、私が田中角栄総理の番記者として同行取材をしていた時である。彼は経理部の職員として、いつもアタッシュケースを大事そうに持ち歩いていた。その中には田中総裁が遊説に行く先々の、候補者への多額の陣中見舞いと宿泊費や交通費、交際費などの現金が詰め込まれていた。夜の懇親会には彼も顔を出し、飲み会が終わるなり、ササっと支払いを済ませる姿があった。田中総裁はエネルギッシュに全国を飛び回り、柔道で鍛えた頑丈な青年であった彼は、全行程に随行した。

 群馬県立沼田高校を卒業した後、法政大学の夜間部に通いながら、義理の伯父の紹介で自民党本部のアルバイトをしていた。1968(昭和43)年に大学を卒業後、本部事務局に正式採用される。公認会計士を目指していただけに数字には強く、何より「口が堅い」ため、ずっと経理を任されて来た。

 絵を描くことが好きで、中学時代に金賞を取ったこともある彼が、平成に入ってしばらくして油絵を描き始める。父に続いて兄を失い、気落ちしていた彼に妻が勧めたことがきっかけだった。原風景であるふる里の群馬県川場村や上州の山々を題材に、温もりを感じさせる独特の絵を描き続けた。

 2009(平成21)年、民主党に政権を奪われて下野した当時、自民党は苦しい状況にあった。幹事長の大島理森と、党の運営や財政事情について話し合った時彼は、「野党となった以上、今までのようには行きません。事務局員の給料が下がることは、十分覚悟しています。しかし、職員をリストラすることは、何としても勘弁してください!」と深々と頭を下げて訴えた。大島は「分かった」と言って頷いた。

 党員歴50年を越えた彼には、退職に関するルールはなく、これまで幾度となく辞表を提出したが、その都度慰留され続けて来た。総裁、幹事長がそろって反対したためだ。党の政治資金とその流れの裏の裏を知り尽くしているが故に、「余人をもって代えがたい」ということだろう。田中角栄から現職の安倍晋三まで、20人の総裁と37人の幹事長に仕えた。ベテランの仕事師を徹底的に重用するのは、自民党の得意技であり、長期政権の強みあるいは、秘訣の一つだろう。

ロッキード事件やリクルート事件など「政治とカネ」のスキャンダルで、自民党はしばしば糾弾され、逆風に立たされることも多い。2004(平成16)年に発覚した「日歯連迂回献金事件」では、彼の関与が疑われ、検察から何度も事情聴取を受けた。「政治資金を扱う裏方をやる以上は、汚いと言われるかも知れないが、自分のような役回りも必要だ。政治はきれいごとでは動かない。話せないことばかりで、それは墓場まで持って行く」と彼は言う。

「もらい湯」は、みんなで助け合う日本の美風の一つで、「思いやり文化」だ。冷酷非情で権謀術数の限りを尽くす永田町の一角に、その「もらい湯」を描いた絵が存在すること自体が不思議なことで、ほのぼのとした気分になる。今の「安倍一強政治」とは、皮肉な取り合わせと言えるかも知れない。彼が、この絵を20年近く壁に掛けているのは何故か。「自分を奮い立たせるためだ」と本人は言う。「もらい湯」が醸し出す古き良き日本の伝統文化を、党の若手議員や事務局員らに伝承したいという想いもありそうだ。それはそれで大切なことだが、私としては「政権与党の金庫番」の彼だからこそ、特定候補への巨額資金投入問題を含め、不信を招いている「政治とカネ」の暗部について、「墓場まで持って行かずに、国民に説明してほしい」と願う。それをまたしっかり伝えるのは、我々ジャーナリズムの責任である。

                 (文中敬称略 肩書は当時)

 

                                     2020年2月記 元日本テレビ政治部長 

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