ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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初任地は、ほろ苦く、懐かしく・・・(熱田 充克)2019年8月

 ぼくは20代の5年間、兵庫県の姫路に住んでいた。駆け出しの新聞記者にとって初任地というのは誰でもみんなそうだろうけれど、ぼくにとっては姫路が懐かしくて、いとおしい。

 でも、記憶の一つ一つをたどると、甘いノスタルジーはたちどころに消えてしまう。思い浮かぶのは苦い経験ばかり。書かなかった話ではない。書きたくても書けなかった自分の不甲斐なさ、悔しさである。40年前のぼくは、毎日がそんな気持ちと無縁ではいられなかった。油断していると、今でも昔のあんなこと、こんなことが不意に脳裏によみがえる。そいつはのれんをひょいと振り分けて、ぬっと顔を突き出しては「よお、久しぶり。オレのこと覚えてる?」と、意地悪くニヤニヤ微笑むのだ。

 ぼくは24歳だった。毎日新聞に入って、姫路に赴任して数カ月。サツ回りにもぼちぼち慣れ始めた梅雨時の朝。姫路署の1階廊下の突き当たりにある記者クラブに出勤した。さして広くもない細長い部屋だ。入って左側の壁際に長くて幅の狭いデスクがあって、その上に電話が2台。折りたたみのパイプ椅子が数脚。右側には2段ベッドが一つ。奥にはみんな形が違って、みんな同じように古ぼけた3台のソファがコの字型に置いてある。各社の仕切りがないオープンスペースなので、どの社がいて、どの社がいないか、すぐに分かった。

 

◆「口裂け女捕まる」を抜かれる 

 

 掃除のおばちゃんが入ってくる。部屋中に散らばっている新聞各紙。床にも落ちている各社の原稿用紙。灰皿に山盛りになっているタバコの吸い殻。食べ残しの丼。ゴミ箱は満杯になっていた中身を吐き出して転がっている。ぐるっと部屋を見渡したおばちゃんは「あんたら、まともな人間やない」と、いつもと同じ呪いの言葉を口にした。ただひたすら恐縮する。

 2階の刑事部屋に行って、課長に朝の挨拶をする。

 「課長、昨夜は銃刀法違反で女性が捕まっていますが、あれは何ですか?」

 「いたずら。署に呼んだけど、すぐに帰した」

 当時、「口裂け女」という都市伝説が全国的に広まっていた。マスクを付けた女が近づいてきて「わたし、綺麗?」と聞く。「綺麗だ」と答えると、やおらマスクをはずして口が耳まで裂けた顔を見せ「これでも?」と聞くという。昭和50年代の日本に出現した妖怪である。姫路署が事情聴取した女性は友達を驚かそうとして夜間、白い着物を着て、包丁を持って、電信柱の陰に立っていたところをパトロール中の警官に見つかった。ただの悪ふざけだと分かり、すぐに無罪放免になった。刑事課長は「世の中はいたって平穏ってことや」と笑った。ぼくは(これは記事にならないな)と思って記者クラブに戻った。

 午後になって支局のデスクから電話があって大声で怒鳴られた。

 「おまえ、抜かれてるぞ!」

 抜いたY社夕刊の記事は社会面トップになっていた。「口裂け女捕まる 姫路署」。書いた記者本人にあとで聞いたら、大阪本社管内だけでなく、東京版まで通して社会面トップだったという。世の中のトレンドに鈍感だったばかりに、なんとも広範囲に抜かれてしまった。

 

◆発砲事件現場で勧進帳に失敗

 

 入社2年目の初夏だった。午後6時を回った記者クラブ。他社の先輩記者がその夜の麻雀のメンツを探していて、ぼくも声をかけられたような気がする。けたたましくサイレンが鳴った。どこかで救急車が何台も走っている。ただごとではない雰囲気だった。警察の指令室に聞くと、発砲事件らしい。カメラをつかんで現場に向かった。路上に3人の男が倒れていた。血痕が飛び散っていた。制服、私服の警官がたくさんいて怒鳴り合っていた。暴力団同士の抗争事件だった。ピストルで撃たれたのは5人。うち2人が死亡、3人が重体だった。

 カメラのシャッターを何回か切って、近くの公衆電話から支局に電話する。デスクの声も緊張していた。「すぐに原稿を送れ」と言われて「分かりました。すぐにかけ直します」と答えたら「電話を切るな。今このまま送れ」。

 原稿を頭の中で組み立てて、そのまま電話口で送稿する「勧進帳」。ぼくはこれが苦手だった。でも、締め切りが早い統合版(夕刊のない地域)に向けて、第一報を送らないといけない。「午後6時30分ごろ、姫路市の路上で、暴力団××組の……」。言葉が出てこない。受話器を握りしめた手が汗まみれになる。現場に着いたばかりで、十分な取材ができていないこともあるけれど、何より発生直後の現場の光景に圧倒されていた。原稿はしどろもどろ。字にすれば5行ほどで止まってしまった。電話の向こうで受けてくれた先輩も、こりゃダメだと諦めたのだろう、早々に見切りをつけて電話を切った。結局、翌日朝刊の紙面は先輩たちが書いたもので、ぼくが貢献したのは現場の写真だけだった。重大事件なのに原稿が送れない。ぼくはしばらく落ち込んだ。

 

◆圧倒された先輩のスクープ

 

 支局経験も4年目になると、そこそこ特ダネも書いて、いっぱしの記者になった気でいた。その頃、警察OBが関与した賭博ゲーム機汚職事件というのがあり、大阪府警と兵庫県警の担当記者たちがスクープを連打していた。ある日、その事件を担当していた先輩記者が姫路支局にやってきた。

 「熱田君、ゲームセンターが密集している場所ってある?」

 「ありますよ、車でご案内します」 

 ネオンまたたく時間に国道沿いの歓楽街を走った。「そうか、こんなにたくさんゲーム店があるのか」。その先輩は助手席でしきりにうなずいていた。

 特に何かを取材するわけでもなく、ただぐるっと回っただけ。すぐに戻ってきたから、ぼくは今後の取材の参考にするのだとばかり思った。ところが、支局に帰った先輩は電話で誰かと話を始めた。「姫路のゲーム街を見てきました。これから原稿を書きます。そうですね、100行ぐらいかな」。電話の相手は本社のデスクらしかった。そして「じゃ、社会面を空けておいてください」。えっ、ざっと歓楽街を見ただけなのに100行? 社会面を空けとけ? その先輩は30分ほどでささっと原稿を書き上げて送稿した。その手際の鮮やかなこと。格好いいこと。思わず目をみはった。

 翌日、その先輩が書いた原稿は社会面トップにスクープとして載った。姫路のゲーム機業者が汚職事件に関与した疑惑があるという内容で、ぼくもその記事を読んで初めて知った。先輩は事前にきちんと取材をしていたのだ。それにしても、ぼくがあと10年ほど修行したとして、あんなすごい記者になれるのだろうか? いや、無理だなぁ。つくづくそう思った。入社4年目で天狗になっていたぼくは鼻を折られて、またへこんだ。

 

◆テレビ局退職後、「原点回帰」へ

 

 その後、ぼくは仕事場が新聞からテレビ局に変わった。30年勤めたテレビ局を退職して会社組織を離れた今、やっていることといえば、本を出したり、週刊誌に寄稿したりというフリーランス活動だ。昨秋からは区立図書館がやっている一般向け講座の講師を引き受けて、定期的にその講義録も作っている。考えてみれば、この2年ほど、原稿ばかり書いている。たぶん今後もそうだろう。これは「原点回帰」かもしれないな、と思い始めた。

 40年前の「ダメダメな自分」は乗り越えられたかどうか分からない。でも、今なら「オレのこと覚えてる?」と言われたら「よおく覚えてるよ。ずいぶん鍛えてくれたね」と言える気がする。

 

あつた・みつよし

1955年3月生まれ 上智大学文学部卒 79年毎日新聞社入社 姫路支局 神戸支局を経て 85年フジテレビ入社 パリ特派員 国際局長などを務め 2015年退社 「薬害C型肝炎」報道で02年新聞協会賞、米ピーボディ賞 03年民放連賞最優秀など受賞 著書に『パリの漆職人 菅原精造』(2016年 白水社)など

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