ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


書いた話/書かなかった話 の記事一覧に戻る

長崎豪雨災害 眼鏡橋を残した市民科学と心意気(佐藤 年緒)2018年4月

  自然災害が多発する日本列島。駆け出しの時代に「長崎豪雨災害」(死者・行方不明者299人)に遭遇した。1982(昭和57)年のこと。「古い話」と言われそうだが、記録破りの豪雨が相次ぐ昨今。むしろ時の経過とともにその災害の持つ意味が見えてくる。災害から町をどう復興させるのか。失敗を含む私の体験も他の災害に生かせるかもしれない。

 

◆電車通りが大河になった夜

 

 長崎支局勤務4年目の1982年の夏。梅雨明けが待たれる7月23日の夕、再び雨が降りだした。県政記者室での仕事を片付け、県庁を出ようとすると、玄関前のロビーに職員が人だかりになっていた。外に出るのが、はばかれる雨脚のようだった。外での会合に向かうため、私は濡れるのを覚悟して玄関を出た。夕闇に重く垂れた雲から雨の塊が落ちてくる。「バケツの底が抜けた」の形容通り。傘は役立たない。雷光と轟が恐ろしく、路地の軒下に沿って歩いた。靴や服がずぶ濡れになって会場の市民会館に着いた。

 

 地下1階の会議室で会合が始まるときに、ジャジャジャーという音が響いてきた。階段から水が流れ落ちてくる。会合は中止となり、私は外に出た。近くに中島川という、国の重要文化財の眼鏡橋など石橋がいくつも架かる川がある。その川から道路に水が流れてくる。見に行くにも水の勢いで近づけなかった。

 

 路面電車の走る通りも大きな川となり、上流から港の方に流れている。膝より高い水の流れに一瞬、転びそうになった。そこで初めて身の危険を感じ、高台にある職場に戻ることを決めた。何とか支局に帰り、東京の本社社会部に専用線で「長崎市内が洪水、中島川が氾濫」と速報を送り、不眠の仕事が始まった。

 

 翌日以降、被害の全体像が明らかになってくる。市内では車は流され、商店街の1階や地下は水に漬かり、電話は輻輳、電気、ガス、水道、道路が機能停止した。速報で伝えた「中島川の氾濫」の事実は間違いでなかったが、市内の被害の大半はむしろ周辺部のがけ崩れや土石流によるもので、それによる死者・行方不明者が全体の9割を占めた。

 

 長崎海洋気象台によると、23日の雨量は午後7時20分からの時間雨量は127・5ミリ、3時間雨量が313ミリ、1897年に同気象台が観測開始して以来の「ほぼ100年に一度」の記録だった。隣りの長与町役場の雨量計は午後7時から1時間に187ミリに達した。これは現在も破られていない国内の観測史上最大の時間雨量である。オリンピック記録のように誇るものではないが、むしろ怖いのは、似たような猛烈な豪雨が増えている点だ。昨年の九州北部豪雨や4年前の広島土砂災害を引き起こした豪雨もその例といえよう。

 

◆忘れられていた江戸期の氾濫

 

 長崎での川の氾濫や土石流への驚きは、いま思うに「想定外」というのは不適切で、「認識不足」から来るものであった。当時取材した同僚記者との座談会記事がスクラップ帳に残っているが、それには「長崎は生活のしやすい町だと市民が自慢する。理由は自然災害が少ないから。過去に大災害の記録は見当たらない」(D記者)とある。記事に「〝災害処女地〟に大打撃」という見出しまで付いていた。今なら使わない用語だろうが、過去に大災害がなかったという私たちの認識は大きな過ちだった。

 

 なぜなら長崎市史年表を読めば、江戸期に中島川はしばしば氾濫を起こし、木橋が流され、そのために石橋に架け替えられてきた歴史が分かるからだ。町の中心から寺院が並ぶ寺町への参道に架かる橋として、貿易で潤った商人や僧侶から寄進された石橋であった。眼鏡橋(1634年架設)も水害で何度も壊れては改修されていた。私は古い文化財が都市に息づく魅力を感じてはいたものの、この文化財と災害との関連を理解するには不勉強であった。

 

 この災害で、一部損壊した眼鏡橋を同じ場所に残すか、それとも川とは別の場所に移転させるか、大論争になった。国と県が川の拡幅の必要から移転を提案したのに対して、市民団体や観光関係者は「町の誇り」である眼鏡橋を何とか同じ場所に残せないかと要望した。

 

 「中島川復興委員会」という市民組織も結成され、1957年に起きた諫早水害(死者539人)を経験した元諫早市土木技師の山口祐造さんも駆けつけた。諫早では眼鏡橋を近くの公園に移転し、復元したが、その経験を基に山口さんは「長崎では眼鏡橋を移転しなくても復元できる」と説いた。「石橋は崩れ落ちることがあるが、コンクリート橋にしたら、洪水時に流木をせき止め、溢れる勢いで周辺の家屋を流失させる。人口密集地で強い橋はかえって仇となる。それに崩れた石は拾えばまた使える」。設計図を見せてこう訴える口調に、自然の理にかなう技と精神を伝えてきた石工と同様の説得力があった。

 

 山口さんの指導で、市内の浸水がどの方向から来たか、その高さを調べようと、ボランティアの人たちも参加し、一斉調査した。長い角材にフェルトペンで寸法を記したものと地図を持って、町の各地点で浸水の痕跡を測り、住民に聞きながら、浸水の変化を調べていった。他社の記者が地域版づくりで忙しくしているのを横目に、私もその調査を手伝った。結果的にこの市民による調査によって、町全体が水に浸かったのは、中心となる中島川の氾濫だけでなく、別の川(銅座川、シシトキ川)や下水路から水が溢れ出たことも原因だったことが分かった。中島川の拡幅だけでは解決できないことが明らかになったのだ。

 

◆転勤記者も地域の災害史を学べ

 

 世論の応援もあって、県は眼鏡橋を移設せずに両側に地下バイパス(トンネル)を設け、増水時には水をはけさせる構造で改修することを決定した。以前本社で建設行政を担当していた私は、その縁で建設省の玉光弘明・治水課長にお会いし、長崎市民の願いを伝えた。のちに玉光課長や県財政当局(前田喬介財政課長)は、財政面で負担が増してもこの「現地保存」を決断してくれたと聞いた。

 

 眼鏡橋を残す復興構想を見届けて1983年の春、私は転勤で長崎の地を離れた。その後も折々長崎を訪ねて、バイパス工事を進めるために左岸に建っていた店舗の立ち退きや町全体の下水路の拡張工事などが続けられていたのを見た。ただ、この災害を契機に国はがけ崩れや土石流の対策を本格化させたものの、その危険が解消したわけではない。

 

 水害後30年を迎えた2012年7月、「30年前を忘れない 長崎大水害の教訓を未来へ」という記念シンポジウムを取材した。田上富久市長は「眼鏡橋をどう残すか議論があったときに、『命か文化財か』と二者択一で問い掛けられると『文化財』とは言いにくかったが、『命も文化財も大事だね』と皆で力を合わせて暮らそうと考えたのが大事だった。眼鏡橋がそこに残って本当に良かった」。そう振り返る言葉を聞いて、私も心が晴れる思いだった。市は「災害を語り継いでいくことが大事だ」(田上市長)として学校や地域でハザードマップを作成、「語り部」を派遣して防災意識を高める活動を進めているという。

 

 教訓は何か。復興には30年、40年と年月がかかる。ゼロリスクの安全はなく、避難というソフトな対策を組み合わせる。急ピッチな復旧を迫られるが、復興の過程で失ってはいけない文化や心意気がある。それは町の発展と災害の歴史から見えてくる。転勤の多い記者も、地域に起きた災害について気象、河川、防災、郷土史などの専門家らと学び合う場をつくる―。それが眼鏡橋を残してくれた方々からのメッセージだと受け止めている。

 

 

さとう・としお

1951年生まれ 75年時事通信社入社 長崎支局 大阪支社 社会部 編集委員などを務め 2003年退社 科学技術振興機構『Science Window』編集長を経て 現在 環境・科学ジャーナリスト 日本科学技術ジャーナリスト会議会長 日本河川協会理事

 

 

ページのTOPへ