ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

日中いばらの道―国交回復前の激動(松尾 好治)2014年7月

「心を通わせた貿易―ビニロン・プラント中国輸出50年」と題するレポートが中国の日本語版総合誌「人民中国」2014年2月号に掲載された。倉敷レイヨン(クラレの前身)の「ビニロン・プラント輸出50周年」の記念式典が2013年末、北京で開かれ、日中双方から約250人が出席したというのである。その輸出契約が実を結んだのは、日中国交回復前の1963年のことだった。実は、この倉敷レイヨンのビニロン・プラント輸出問題に私は浅からぬ縁があった。


当時、私は駆け出しの経済記者として初めて貿易問題を担当した。取材対象は通常、主に商社や貿易団体で、東京・八重洲口の国際観光会館内にあったジェトロにある貿易記者会を根城に取材活動をした。担当者は各社とも一人だ。範囲はやたらに広く、相手に顔をつなぐだけでも大変で、記者クラブの席を温めている暇はまずないと言ってよい。そのころ最も重大で、最もデリケートな取材テーマとして浮上したのが日中貿易問題だった。


◆◇プラント輸出に賭けた執念◇◆


日中貿易には「友好貿易」と「日中総合貿易」(覚書を取り交わした中国側アジア・アフリカ連帯委員会主席の廖承志氏と日本側自民党の高碕達之助氏の頭文字を取って「LT貿易」と称した)の二つのルートがあった。この「LT貿易」は、1962年9月に訪中した自民党の松村謙三氏と中国側周恩来首相との間の「日中双方が漸進的かつ積極的方式で政治、経済を含む両国関係の正常化を図るべきだ」との合意に基づいて、同年11月に5年を取引期間としてスタートしたもので、当時の池田勇人首相もこれを支持し、準政府間貿易協定の性格を帯びていた。その第一年度、つまり1963年の取引項目の目玉としてプラント輸出が明示されていたのである。プラントの候補としては倉敷レイヨンと大日本紡績(1964年4月からニチボーと改名、現ユニチカ)のそれぞれビニロン・プラントがあり、最初は資金の関係もあって中国側が規模の小さい方の倉レのプラントを選んだため、大日本紡績の方は結局第二年度に回された。ここで倉レと日紡の明暗が分かれたことは後述する。


プラント輸出ともなると、当時輸出業者、メーカーは資金繰り上、延べ払い期間中ほとんどすべてが日本輸出入銀行の低利融資を仰いでいた。つまり、輸銀融資はプラント延べ払い輸出の不可欠の条件だったと言える。通常の商業取引ではあるのだが、中国との国交が正常化していない時だけに、倉レのビニロン・プラント輸出案件には様々な問題が横たわっていた。1950年、朝鮮戦争勃発後、米国は中国に対する全面禁輸措置を取り、日本にも同調するよう求めた。対日講和条約発効後の1952年8月には、日本は米国の主導で成立していたココム(対共産圏輸出統制調整委員会)にも加盟した。朝鮮戦争が終わってから中国との貿易ルートは民間ベースで開かれはしたが、独立回復後も日本が中国問題で絶えず米国の顔色をうかがう情勢には変わりなかった。


台湾に亡命した国民政府は、中国本土との間で激しい敵対関係が続いているから、日本の対中貿易拡大には苛立ちを募らせる。加えて自民党内には対米国、台湾に気兼ねして特にプラント輸出に猛反対する保守派が存在する。いずれも厳しい制約条件が立ちはだかっている。いくら準政府間貿易協定といっても、いざとなると対中プラント輸出にはなかなか踏み切れず、たなざらしのまま結論をずるずる先延ばしにする恐れは十分あった。


1963年7月、ケネディ米大統領が議会に提出した利子平衡税創設法案も、一時このプラント輸出問題に影を落とした。これはドル防衛の一環として外国人が米国内で株式、社債などを発行する場合、一定税率で課税し、米国からの資本流出を防ぐのが狙いで、米国からの資本導入に依存していた日本にとっては一大事である。そこで日本は適用除外を交渉することになるのだが、米国が中国封じ込め政策を取っている以上、プラント輸出を認可することは対米折衝を著しく不利にするとして「認可をしばらく見合わせるよう」、在米、在カナダ大使館から大使名で政府に要望を伝えてきたのだ。米国のご機嫌を損なわないようにしてくれという申し入れである。実際問題としてプラント輸出が利子平衡税を巡る対米折衝に直接影響を与えた形跡は見られず、大使館側の過剰反応だったと思われるが、政府部内でもこの輸出案件で足並みをそろえるのが決して容易ではなかったことを物語っている。


倉レはビニロン・プラント輸出について中国側との間で1962年11月に仮契約を結び、63年7月に正式契約に調印した。英国、フランスなど西欧勢もこのころ対中プラント輸出に積極的に乗り出し、競争は激しさを増しつつあった。契約は8月末で期限切れとなる。またLT貿易は毎年、日中両者間で翌年度の品目と金額を決めることになっていたので、前年度の目玉案件の実現があやふやでは翌年度の交渉には入れない。それに政府の支持と協力を前提としていたから、政府としても頬かむりしたままでは自らのメンツにもかかわる。自民党の松村謙三さん、高碕達之助さんらも、政治問題化して紛糾しないよう党内反対派の説得に全力投球した。


延べ払い輸出の条件は契約では頭金25%、期間船積み後5年、金利4・5%となっていて、このうち政府の頭を最も悩ませたのは金利である。当時通常のプラント輸出の場合、金利は5-7%が多く、4・5%の金利は開発途上国向けより優遇することになるので認められないというのが政府の出した最終的な結論だった。これに対応してLT貿易の日本側がまとめた案を探ってみると、金利を6%に引き上げる代わりにプラント代金74億円を72億円程度に値引きし、実質的に中国側の支払金額が変わらないように配慮するというものであることを、私はつかんだ。


さて中国側がこれを受けるのかどうか。私は63年春ごろから重要な関係先を徹底的に取材していた。LT貿易の日本側責任者である高碕達之助さん、同じく補佐役格の岡崎嘉平太・全日空社長、政府関係では福田一通産相、谷敷寛通産省通商局輸出振興部長(後に日揮副社長)といった方々とその関係先が主な取材対象である。対中ビニロン・プラント輸出第二陣として控える日紡の原吉平社長のところにも、社長が上京するたびに堀留の日紡東京事務所に通い詰めた。事務所には“東洋の魔女”と謳われた日紡バレーチームの選手の姿もあった。


8月に入ると風雲急を告げる。信頼関係を築き上げてきた取材先から決定的な内容を入手した。中国側が8月17日、日本側の提示した新条件を受諾すると連絡してきたのである。それっとばかり、翌18日付朝刊用に「中国向けビニロン設備輸出、政府が20日にも認可、金利は西欧並み条件の6%で」を出稿したのである。この記事は共同通信加盟社の紙面を華々しく飾った。このニュースを他社は確認できず、共同通信が独走する結果になった。20日の朝刊段階でも、全国紙の一社は「福田通産相は金利などの条件で中国側と最終的に折り合いがつけば認可に踏み切る意向」と自信のない紙面だったし、在京共同通信加盟社の一社も自社ダネで「中国側の同意を待って今日にもビニロン・プラント認可、金利年5―6%に」と詰め切れなかったことを露わにした記事をトップに掲げた。


そして20日。福田通産相と大平正芳外相、田中角栄蔵相が閣議の前協議、政経分離の原則に立つ通常の商業取引として頭金25%、期限船積み後5年、金利年6%の延べ払い条件で認めることを決めたのだ。この朝、私は東京・信濃町の高碕邸に駆けつけた。高碕さんはこの日はどういうわけか、いつもの接見室ではなく、自身の寝室に私を招じ入れた。政府の決定は先刻承知なのだが、部屋から通産省に電話をかけ(相手は大臣か事務次官、通商局長のいずれかであったろう)、「いま私のところに記者が大勢押し掛けている(実は私一人だったが)。決定は間違いないな」と確認を取った。駄目押しをするところ、さすがである。そこで高碕さんは決定直前のいきさつを私に明かしてくれた。


「金利は契約で4・5%になっていたが、政府がどうしても6%にしてくれというので、14日政府の意向を中国側に伝えた。17日に廖承志さんから『あなたの申し出を了承する』と丁寧な返電があり、福田通産相に報告した。これで高碕・廖覚書は完全に実行され、まことに喜ばしい。早速第二年度(1964年度)の取引について交渉に入るが、私は健康が許さないので然るべき代表を選んで来月早々にも訪中してもらうつもりだ」


倉レのビニロン・プラント輸出問題がやっと決着して、高碕さんには肩の荷を下ろした安堵の表情が広がっていた。高碕さんはこの年3月、胃潰瘍の手術(実は胃がん)を受けており、体力的に無理を重ねながら、この問題の解決に全力を尽くしたのである。プラント輸出は長期的な経済取り決めだから輸出先との間の幅広い人事交流、技術交流を伴い、日中経済関係に質的な変化をもたらすことが予想された。この画期的な対中プラント輸出第一号は倉レ自らの努力はもちろん、松村謙三さん、高碕達之助さんら自民党内の有力者、岡崎嘉平太さんら経済人有志、通産省担当者の献身的な努力の積み重ねと執念によって結実したと言ってよい。ビニロン・プラント輸出についての私の記事は編集局長賞の候補になったらしいが、それはうわさの域を出ず、実際には何の賞にも与らなかった。だが私にとって誇るべきスクープであることに全く変わりはない。


倉レを突破口として日紡のビニロン・プラント輸出が続くはずだったし、日立造船の貨物船輸出商談も進行していた。ところが強烈な横槍が入った。台湾の国民政府が、ビニロン・プラント延べ払い輸出は中国に対する経済援助だと激しく非難したのだ。輸銀融資はいわば売り手の日本側プラント・メーカーに対する援助だが、国府側は輸銀資金は国家資金だから延べ払い輸出は日本が国家資金で中国に経済援助を与えたのと同じだと、繰り返し主張した。国府は大陸反攻の構えを見せ、台湾海峡では極度の緊張状態が続いていた時だけに、理屈抜きの感情的な反発だったのだろう。日本政府は国府の抗議に手を焼き、毅然たる態度を取れないまま問題をこじらせる方向に進んでしまった。この問題が沸騰点に達するのは、翌1964年から65年にかけてである。


◆◇中ソ対立の狭間の日中交流◇◆


63年9月末、私に初めて中国の大地を踏むチャンスが訪れた。「友好貿易」のルートで石橋湛山元首相を総裁にいただいて10月初めから北京で開く日本工業展覧会(総合見本市、略称「日工展」)の取材を命じられたのだ。各社取材陣は経済部ベテラン記者が大勢を占め、弱冠28歳の私は記者団の最年少だった。9月24日、経済部の先輩たちの盛大な見送りを受けて(当時はメディアでも国内組の海外出張は珍しかった)羽田を飛び立ち、米軍占領下の那覇空港を経由して香港に到着した。香港の市内では乳母車を押す、はつらつとした若い英国婦人二人連れの姿がいきなり目にとまり、この地が英国の植民地であることを実感した。


LT貿易第二年度の交渉を終えて帰国途中の岡崎嘉平太さん一行の取材もあって香港に二泊した後、26日朝、香港側の羅湖から鉄橋を徒歩で渡って中国側の深圳に入り、記者団一行は新華社の劉宗孟氏(後に東京特派員)、北京放送局の陸琪氏の出迎えを受けた。初めて接した新中国の顔である。深圳は純然たる農漁村で、のどかそのもの。高いビルの影はどこにも見当たらない。ここから列車に3時間揺られ、広州に到着した。投宿したのが珠江沿いの「愛群大廈」。戦火にまみれたままだったせいかどうか、当時は黒くすすけた、まるで骨董品のような建物で、炎熱の時候にもかかわらず、エアコンなどあるはずもない。ただ過ぎ去った時代を偲ばせ、何ともいえぬ懐かしさを覚えさせる情緒があった。八階の部屋の窓から見た珠江には悠然とジャンクが浮かび、悠久の大地の歴史を物語るかに見える。


翌27日、空路、長沙、武漢、鄭州を乗り継いで北京に向かう。河南省上空辺りだっただろうか、飛行機の窓から地上を見渡すと、一面水浸し。水害の生々しい現場だ。なんと飛行中10分ぐらいこの光景が続いたのである。水害も日本では全く想像できないほどのスケールの大きさだ。やはり、これが大陸なのだなとの思いを強くした。この年、大自然災害に見舞われたとは聞いていなかったのだが、後で聞いた話では華南の一部で日照り、河北、山東、河南の三省でかなりの規模の洪水が発生したということだった。


広州を出発して約8時間50分後にようやく北京に到着した。空港には金木犀の甘い香りがほのかに漂う。宿泊先となったのは、西長安街の民族飯店だ。この季節、屋上に上がって見ると、空はどこまでも澄み渡り、街全体がさわやかな木々の緑に覆われて、まさしく“北京秋天”の趣だった。ここで私たち記者団の中国側世話役に新華社の呉学文氏(後に東京特派員)、劉延州氏(同)が加わった。当時、西側先進国のうち中国と国交を樹立していたのは英国だけで、北京には西側先進国メディアの常駐記者はほとんどいない。原稿はほとんどタイプライターで打つローマ字電を電報局から送る。電報局は歩いて15分の距離にある。北京滞在中ホテルと電報局との間の頻繁な往復に明け暮れた。


中国側の世話役をはじめ私たち記者団に接した人々は議論好きが多かったが、「私たちの見解に賛成、不賛成は大した問題ではない。意見交換を通じて私たちの観点を理解していただき、お互いの理解を深めることができる」(勇龍桂・中国国際貿易促進委員会秘書長、経済学者)の言葉に象徴されるように、イデオロギーを押しつけるということは全くなく、私たちに中国の実態を見てもらうことに力点を置いていたと思う。


10月1日は快晴に恵まれ、建国14周年を祝う国慶節。北京訪問中の日本人全員が招かれて、天安門に並ぶ観覧席から50万人の学生、少年先鋒隊、一般市民が繰り広げる大パレードを参観した。新生中国の息吹が伝わり、迫力は十分である。この時、天安門壇上から群衆の歓呼にこたえて手を振る毛沢東の姿を、はっきり捉えることができた。熱狂する群衆は、まるで陶酔状態にあるように見えた。


建国後14年の月日は国の基盤を確固としたものにするには、まだ短い。内憂外患の数々をどうやって乗り越えるのか、国の指導者の悩みは深刻だっただろう。第二次5カ年計画(1958-1962年)の期間中、中国はさんざんな目に遭っている。毛沢東が1957年末、工業生産で英国に追いつき追い越そうと提起して始めた「大躍進運動」は、鉄鋼づくり(それも結果として大半は粗悪品)に農民を動員し、農業を荒廃させて食糧危機を招き、石炭、木材も不足、工業生産力を破壊するなど60年半ばに挫折した。これに追い打ちをかけたのが、59年から61年にかけての3年連続の大自然災害だ。食料の欠乏による餓死者は数知れない(後の西側推計では1500万人ないし1800万人)。食料の確保と農業生産の回復が大問題となってのしかかってきた。


その上、対外環境が急激に悪化し、中国の国際的立場を激しく揺さぶった。米国、台湾による包囲網に加えて、中ソ対立の深刻化である。中ソ間では58年から59年にかけて軍事問題で意見が対立し、60年春にはイデオロギー論争が爆発、この年7月、ソ連側は技術指導のため中国に派遣していたソ連人専門家1390人を引き揚げる挙に出た。これは中国にとって経済建設の設備、資材面で大きな打撃となった。61,62年に経済成長が著しく鈍化し、第二次五カ年計画は頓挫した。大躍進運動の失敗後60年半ばから事実上、調整政策を余儀なくされたのである(経済調整期に経済困難の克服を最優先させた実務派とイデオロギー最優先の革命派の路線対立が次第に先鋭化し、66年から「文化大革命」に突入することになる)。


中ソ対立は63年以降双方の公開論争にまでエスカレートした。北京の民族飯店に私たち日本記者団が陣取った7階のロビーで世話役の北京放送局の陸さんは、ラジオにかじりついて公開論争のニュースを聞くのを日課にしていたようだ。一方、米国は中国封じ込め政策の締め付けを強める方向に進み、台湾の国民政府は中国本土反攻の機をうかがい、62年ごろから台湾海峡の緊張が再び高まっていた。


危機を打開するため、中国は政治面、経済面で日本、西欧諸国との関係改善を模索する政策に転じていたのである。中でも日本からの資材、技術の導入に大きな期待を寄せ、62年に入ってから自民党有力者に対する接近が活発化したのだ。この年9月、松村謙三さんが訪中した際、中国側は既に日本からの輸入を希望する品目として化学肥料、農薬、鋼材、化繊プラント、農業機械を挙げていた。農業生産の回復、食料の供給、衣料不足問題の解決が、国民生活を守るための緊急の最重要課題になっていた状況の下、LT貿易、倉レのビニロン・プラント輸出、友好貿易は中国から見て実に大きな役割を担っていたと言ってよい。


日工展の開幕を翌日に控えた63年10月4日、中国は日中関係推進の中心母体として「中日友好協会」を発足させた。会長は廖承志さん、秘書長は趙安博・人民外交学会理事である。これは日中関係を重視して中国側が発した重要なシグナルだった。私の依頼で寄せた手記の中で趙安博さんは「私たちは日本で中日友好事業を進める人がますます広範になっていることをうれしく思う。進歩的な政党、団体、人々だけでなく、政権を取っている自民党内でも識見のある政治家が沢山いる。彼らは皆中日友好関係発展のため努力している。現在中日友好は既に阻むことのできない大きな流れになっている」としたため、早期の国交正常化に対する強い期待を示した。


余談だが、この手記を受け取った本社の編集者は趙安博さんの「中日友好協会秘書長」の肩書を「日中友好協会秘書長」と勝手に書き変えて配信した。後でこれを知った趙安博さんは大変立腹し、私は平謝りに謝るしかなかった。かなりの長期間にわたって「中日友好協会」と「日中友好協会」の区別がつかない例は、他の社や出版関係者にもあった。


10月5日、中国で戦後開かれた最大の見本市として日工展が開幕し、会場の北京展覧館前広場には1956年の北京・上海日本商品展以来7年ぶりに日の丸の旗が翻った。56年の時は開幕して1時間後に、意見簿に「あの旗(日章旗)を打てというのが私の目標だった。あの旗を見ると私の体は本能的に打ち震えてくる」という痛烈な投書が書き込まれたというが、日中貿易拡大、友好の気運が盛り上がってきた時期に開かれた日工展では、そのような意見は寄せられなかった。だが、中国の人たちのかつての日本の侵略に対する心の中のわだかまり、深い怨みが消えたわけではない。長い年月を経ると忘れられるという性質のものではないのである。


怨みの一端に触れておきたい。時期はずれるが、怨みの深さをこの22年後(1985年)に実感したことを、岡崎嘉平太さんが書き残している。岡崎さんが日本人として戦後初めて旅順を訪れた際、「萬忠墓」(多くの忠義の人の墓)という墓地に行く機会があった。これは日露戦争当時、旅順開城の後、進駐した日本軍によって殺された中国の一般市民2万数千人の墓で、事実を知った岡崎さんは胸を痛めつけられた。


この話には続きがある。帰国後、新任の章曙駐日大使の歓迎パーティーで岡崎さんが会った中国大使館のある参事官がこの話を聞いて、自身の祖父がそのときウドンを食べていて日本兵に殺されたと言ったのである。岡崎さんは「言葉もなかった」と記している(岡崎嘉平太「二十一世紀へのメッセージ」より)。私にも後年やや似た体験がある。長年上海を訪れるたびに愛想よく世話を焼いてくれた中国の知人と夕食を共にしていた際、彼が突然自らの親族が日中戦争当時、“三光作戦”(焼き尽くす、殺し尽くす、奪い尽くすという華北で実施した日本陸軍の作戦)で殺されたと打ち明けたのだ。それまで彼が決して見せたことのなかった、刺すような鋭い視線で。私は絶句した。帰国後1年位経ってからだったろうか、彼の訃報を知った。


日工展の開幕に話を戻そう。10月5日夜、石橋湛山総裁主催のレセプションが北京飯店で開かれ、周恩来首相も出席した。挨拶のあと周首相は驚いたことに、会場にいた約300人の日本人一人一人と握手し、乾杯したのである。私には「共同通信は海外に多くの支局がありますね」と話しかけた。じかに接していると心温まる雰囲気があり、柔らかな物腰、大きな包容力は、さすが大国を引っ張る大宰相の器と感じ入った。


1955年4月、インドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議に日本政府首席代表として出席した高碕達之助さんは、この時初めて周首相と会い、たちまち互いに肝胆相照らす仲となっている。「面をおかしても言うべきことは言う。これが私の政治家としての外交方針の基礎である」とした高碕“哲学”に周首相も大いに共鳴したのではなかろうか。岡崎嘉平太さんは「人の身になって考える」という周首相の信条に痛く心を動かされ、周首相を人生の師と仰いだ。柔軟に思考し、かつ決して節を曲げず信念を貫き通したこの政治家は、多くの日本人に深い印象を残している。


このころ日本経済はダイナミックな成長を続け、技術革新が急速に進み、合成繊維、合成樹脂、テープレコーダー、テレビ、トランジスタラジオ、電子計算機などの発展が目覚ましく、カメラ、ミシンをはじめとする精密機械工業が輸出産業として脚光を浴びていた。経済は活力に満ちあふれ、行政は輸出第一主義を大いに盛り上げていた。米国の中国封じ込め政策の影響はありながらも、日本企業は巨大市場の潜在力をはっきり認識しており、日工展には、工作機械、金属機械、繊維機械、計測器、農業機械、電気通信機械など、かなりレベルの高い工業製品が出品された。日本の先進的な工業水準は、ソ連との技術交流の道が閉ざされたこともあって、中国の技術陣に強い刺激を与えたことは確かで、9月30日までの北京会期中、参観者120万人のうち専門家の参観は延べ5万人に達し、特に半導体機器、計測器、精密機械、農業機械などに大きな関心を寄せた。中でも、半導体技術は中国専門家の垂涎の的だった。日中経済交流の中で日工展はまずまずの成果を上げたと言っていいだろう。


このころ米国ではホッジス商務長官が「対共産圏貿易の拡大で国際収支の改善を図れ」とNBCテレビのインタビュー(9月16日)で公然と発言し、ワシントンで開かれた「輸出拡大に関する会議」(9月18日)も同じ趣旨を米国政府、議会に勧告した。中国封じ込め政策を取っている間に、日本に中国市場を席巻されはしないか、という焦燥感や警戒感が米国の経済界にあったかもしれない。


◆◇ズボンなくても原爆つくる発言に驚愕◇◆


私たち訪中記者団の活動で圧巻だったのは、陳毅外相との会見である。63年10月28日朝、国務院接見室で陳外相は私たち日本記者団の質問に答える形で、2時間15分にわたってメモを一切見ずにぶちまくった。新進気鋭の劉徳有氏の通訳である。私たちは日本出発前から中国要人との会見に備え、それぞれ国連の中国代表権問題、核実験、63年から予定されていた第三次五カ年計画など中国の当面する重要問題についての予備知識を仕入れていた。陳外相は人民解放軍の司令官や上海市長(三期)などを務め、元帥の称号も持つ「歴戦の勇士」だが、村夫子然たるところもあり、庶民的肌合いの陽気な人物だった。その彼が歯に衣を着せず激情を吐露したのである。


まず熱弁をふるったのは、国連代表権問題だ。国連総会で13年間も中国の地位回復が否定され続けた後だけに、米国が国連を操っていると激しく非難、「現代の世界政治の最も滑稽なサル芝居、総演出に当たっているのが米国であり、蒋介石は道化役、われわれ中国は観衆だ。このサル芝居が何年続くか見たい」と毒づいた。中国代表権問題に関する国連での決定について「米国が国連を自国の外交政策の手段とみなしていた」(緒方貞子『戦後日中・米中関係』)のは確かだから、米国は陳外相に痛いところを突かれていたのである。


「世界には米国という神様がある。彼ら自身の姿に照らし合わせて世界をつくろうとしている。フルシチョフ・ソ連共産党第一書記も同じだ。中国人民はわれわれの姿に基づいて国をつくる。百花斉放でやっていく。いろいろな色、香りがあり、みんなが歓迎する」とした陳外相の言葉からは、中国のリーダーの並々ならぬ自負心を感じ取ることができた。


中国は近い将来原爆の実験をする計画はあるか、との問いには即座に「実験をします。時期は言いかねる。中国の工業の基礎はまだ立ち遅れている。あと数年間必要かもしれない。何年間かかるかは、はっきり言えない。もし数年後に原爆の実験をしたところで量産するには時間がかかる」と答えた。実験計画を歯切れよく肯定したのだが、時期についてはあいまいな、言い換えれば非常に慎重な表現をしている。これは、この発言によって国際的にどのような反応があるか、探りを入れることが狙いだったのだろうか。既に原爆の製造を完成させ、実験のタイミングを図っていたことは十分考えられる。引き続き「核分裂、ミサイル、超音速飛行機は、その国の工業水準を反映している。数年以内に解決できなければ、中国は二等国、三等国でしかない。中国を守ることはできない。われわれはこの解決に近付いている。数年後に解決できる。米国にできて中国にできないことはない」とした発言は、自信が揺るぎないものになっていることを示したものだ。念を押すかのように「履くズボンがなくても最新の兵器をつくらねばならない」と息巻き、私は「陳毅将軍は随分思い切ったことを言うものだな」と驚いたり、あきれたりだった。


第三次五カ年計画については、大躍進運動の挫折、大自然災害、ソ連技術者の引き揚げ、米国の封じ込め政策の影響で計画の実行段階に入れないことを明らかにし、「調整にあと1、2年かかると思う」と経済の回復が容易ではないことを率直に認めた。この陳外相の会見では、原爆実験の発言がトップニュースであることは間違いない。私はタイプライターを抱えて電報局に飛び込み、第一報を至急電で東京本社に送った。打電し終わるのに2時間かかった約150行の原稿は、即刻海外にも発信され、世界的ビッグニュースとして大きな反響を呼んだのである。


中国は1950年代の初めごろから米国による核攻撃の脅しをかけられ続けたため、核開発を急ぎ、1958年5月に「わが国の労働者階級と科学者は必ずや近い将来に最新型の飛行機と原子爆弾をつくるであろう」(5月23日付「解放軍報」)と原爆製造の意志をはっきり示した。頼みとしていたのはソ連からの技術移転である。だが中ソ対立が激しくなる中、ソ連は59年6月、国防用新技術の提供に関する協定を破棄した。ソ連の核兵器のカサに入ることも不可能だ。中国は原爆の早期自力開発に資源を集中する道をたどったのである。その結果、60年7月、ソ連が技術指導のため中国に派遣していた技術者の引き揚げを開始したころには、原爆製造のメドがつき始めていたようだ。


陳外相の原爆実験発言の直前、西側には中国の原爆実験の時期が切迫しているという観測が広がっていた。これは私が帰国後分かったことだが、米国のワシントン・ポスト紙は、陳外相の記者会見について私の送った北京共同電をキャリーした東京UPI電を掲載した。原爆実験の時期がかなり先に延びるという見出しにしている。ニューヨーク・タイムズ紙は、同じく私の北京共同電をキャリーした東京特派員電を中心に長文の解説記事、年表付きの大々的な報道である。同紙も、原爆実験が何年か先になるというのが主見出しだ。大自然災害やソ連技術者引き上げによる打撃で、開発が遅れているに違いないという推測によるのだろう。この両紙の扱いから、米国が中国の原爆実験にいかに強い関心を寄せていたかが分かる。


ソ連からの圧力が強まる一方、1964年8月に米国がベトナム戦争に介入、中国は腹背からの脅威を強く意識し、毛沢東は米国が中国に対し核攻撃をする可能性があると予測した。フルシチョフ・ソ連共産党第一書記が解任された翌日の1964年10月16日、中国は最初の原爆実験に踏み切り、成功した。原爆実験をするとした陳外相の発言から一年後である。「数年後かも」という発言を真に受けていたとしたら、一杯食わされたことになる。あるいは、厳しい対外環境による危機感から作業を急ピッチで進め、スケジュールを大幅に短縮することができたのか。中国が米国、ソ連、英国、フランスに次ぐ五番目の核保有国になり、核抑止力を手にしたことは、世界の政治構造の重大な変化を意味した。中国は初期段階ではあるものの、米国の核攻撃の脅威に対抗する体制を一応整え、軍事大国としての地歩を確実に固めたのである。またソ連の軍事力増強に神経を尖らせていた米国側から見て、それは中国封じ込めから対中関係正常化へ、やがて政策転換する道を用意したと言ってよい。


陳外相の記者会見の時に立ち返ると、外相は核兵器問題に関する中国の原則的な立場にも触れた。「原爆を保有するか、しないかによって対外政策は左右されない。人間が原爆を製造するのであって、原爆が人間を製造するのではない。人間が原爆を消滅するのであり、原爆が人間を消滅するのではない。われわれはこの問題に楽観的だ」。持って回った表現だが、核戦争による破局を中国の人々が望まないのは当然で、既に中国は核兵器の全廃、アジア太平洋地域における非核武装地域設定を提唱しており、陳外相は改めて全面的な核廃絶の立場を示したのだ。


だから、この年8月5日、米国、英国、ソ連の三国が調印した部分的核実験禁止条約については全面的核兵器反対に触れていないというわけで、陳外相は「三国による核独占であり、原爆を持っていない国は調印するだけの権利を持つ。中国はこのような待遇を受け入れることはない。本当に原爆禁止の意志を持っているならば、どうして公正に事前にすべての国の意見を求めないのか。これは非常に悪辣なやり方だ。彼らはこの条約で将来ある国が原爆実験をやった時、袋叩きにしようと狙っている。米国、英国、ソ連が腰に原爆をぶら下げ、世界の多くの国が追随している。臍を固めて、あくまで抵抗する。原子エネルギーの独占にあくまで反対する以外に道はない。原子による保護のカサに立てば、自己の主権と独立を売り渡すことになる」と激しく噛みついた。厳しい国際環境によるプレッシャー、主要国の核独占の中で主権と独立を守るため、中国としては核抑止力を持つ以外に選択肢はないという理屈なのである。


中ソ関係について外相はソ連共産党、ソ連国民、ソ連赤軍とフルシチョフ共産党第一書記をはっきり区別し、フルシチョフ指導グループだけに非難の矛先を向けた。「フルシチョフは、中国は六億以上の人口を持っているが人間の肉の塊でしかないと言ったそうだが、みんな肉の塊ではないか。しかし革命家の肉の塊もあれば帝国主義に妥協する肉の塊もある。彼らは中国をバカにしているのだ」といった具合である。フルシチョフの毒舌には一歩も引けを取らない毒舌で切り返した。私たちとの記者会見での“陳毅語録”はなかなかユニークである。


「フルシチョフは原子兵器をつくる、最新兵器をつくる段になると非常にカネがかかり、つくれなくなる可能性があって履くズボンがなくなるかもしれない、と皮肉ったことがある。私個人の回答としては、履くズボンがなくても最新兵器をつくらねばならない」


「率直なところ中国の専門家は日本の半導体技術を羨ましがっている。私は学びなさいと言っている。勉強には努力が必要だ。英国、フランスの見本市が来ても同じだ。そういった国の自由意思に基づかねばならない。相手が望まなければ、それでいい。人の持っているものは何でも欲しい、(相手が)売らなければ腹を立てる、ということはできない。中国の諺に『他人の愛するものを奪わない』がある」


「労働と知恵でマルクス・レーニン主義を発展させていく。われわれの政策を変革し得るような政策はどこにもない。立ち遅れたから発展も急速にはできないが、フリーな立場に立つことはできる。イエス・キリストの説によると、金持ちが極楽に行くのは針の山に行くより難しい。われわれも貧乏しよう」


この終わりの語録のイエス・キリストの説の個所は、注釈の必要がありそうだ。新約聖書マタイの福音書19章23、24節に「金持ちが天のみ国に入るのは難しいことです。まことにあなた方にもう一度告げます。金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」とある。陳外相の発言は、この個所を中国人に分かりやすく大胆に意訳したもののようである。


私たち記者団は日工展の間を縫って東北地方の瀋陽、撫順、鞍山を視察した。瀋陽でホテルから車で40分の距離の農村を訪れた帰り、雄大な大地に沈む太陽の美しさには思わず見とれた。撫順西露天炭鉱を見学した際、説明に当たった事務室主任は旧満州国時代から働いているという人物で、私たち日本人記者団に対する厳しい表情を隠さなかった。日工展北京会期が終わった後は太原、西安、武漢などを視察し、私の場合は12月からの上海会期を残して武漢から広州、香港を経由して11月20日帰国、二か月に及ぶ取材旅行を終えた。その全体を通じて中国は貧しくはあるが社会秩序が保たれ、大国として力を伸ばしつつあるという印象を受けた。多事多難ながらも経済建設の意欲は非常に強く、経済調整政策の効果も次第に現れ、落ち着きを取り戻していたのである。ただ、これは血なまぐさい権力闘争が繰り広げられた「文化大革命」を三年後に控えた嵐の前の静けさだったと言っていいのだろう。


◆◇吉田書簡が強いた犠牲◇◆


LT貿易の道を切り開いた高碕達之助さんは、かねがね「貿易は最良の“平和の使節”だ」と漏らしている。その高碕さんは実は共産党嫌いとも自称していた。この点は突っ込んで高碕さんの考えを探ってみる必要がある。1960年に無類のレッドチャイナ嫌いと言われたジョン・マッコーミック米民主党下院院内総務と食事した際の高碕さんの話はこうだ。


「私も共産主義は嫌いだ。しかし日本人は中共も台湾も同じ中国民族だと思っており、別視していない。その隣国中国を日本は過去三十年間侵略し、圧迫した。これが大変な誤りであったことは、アメリカ人はよく知っている。しかも戦争が終わって、フィリピン、ビルマ、インドネシアなど他のアジア諸国には賠償を支払ったが、一番迷惑をかけた中国には一文の賠償も払っていない。中国人も、日本からとろうとは思っていない。幸い日本は敗戦国でありながら、アメリカの援助によって復興し、国民生活も向上してきた。しかるに中国の人民は建設途上にあって非常に苦しんでいる。食糧も足りない。これをかつての加害者であり隣国である日本が放っておけるだろうか。私は老い先短いが、生きている間に罪ほろぼしをしたい。アメリカも、この考え方を理解してほしい」(『高碕達之助集』より)


これこそ高碕さんがLT貿易と倉レのビニロン・プラント輸出の実現に身命を賭した原動力だった。これは自虐的史観の類では決してない。この言葉には、歴史と真正面から向き合う日本の誇り高き知性の良心が表れている。高碕さんは台湾にいる中国人も大陸にいる中国人も同じ中国人だから、いずれ互いに了解がつくに違いないと両者の和解を予測していたし、共産主義と資本主義が互いに仇敵視するのは間違いで双方は必ず一致する時期が来ると読んでいた。経済人(東洋製罐会長兼社長、電源開発初代総裁)としては合理主義に徹し、政治家(自民党代議士、元経済企画庁長官、日ソ漁業交渉首席代表)としてはいかなる権力者にも媚びることなく、「無償の情熱、つまり愚を守る」精神で日本経済の発展と繁栄のため行動した。岡崎嘉平太さんは冗談交じりに高碕さんを「あの方は水陸両棲類ですよ」と評していたが、政治、経済の両面で大きな業績を残した“両棲類”は、中国に対して常に深い理解と親しみをもって接し、日中関係のあるべき姿をしっかりと見据えていた。近親者の話では、高碕さんが64年2月24日、79歳で他界する直前意識がなくなり、うわ言を言っている時にもとぎれとぎれに「日ソ」「日中」とかいう言葉が聞かれたという。


高碕さんの志に全く反するような事件が発生した。「吉田書簡」である。この年5月、吉田茂元首相が張群国府総統秘書長宛てに、日本政府の意向として中国に対する延べ払い輸出方式を民間ベースに切り替えるよう検討しており、この結論が出るまで対中国延べ払い輸出を見合わせるという趣旨の親書を送った。日本政府が倉レの対中ビニロン・プラント延べ払い輸出に輸銀融資を認めた後、国府の抗議は執拗に続き、駐日大使の引き揚げ、国家買付物資の日本からの輸入停止などの報復措置を取る騒ぎとなった。国府は米国との間で米台相互防衛条約を結び、反共の砦と自負しているだけに、日本が輸銀融資という形で中国に援助を与えるのは許せないと大層な剣幕なのである。倉レのケースはあくまでも通常の商業取引にすぎないと言っても、相手は聞く耳を持たない。困り果てたのは日本側だ。このまま日台関係の悪化が続くと、対米協調に影響が及ぶ恐れがあると危機感を抱くに至った。そこで池田首相の意を受けて吉田書簡が出されたのである。池田首相は64年11月、病気退陣し、後を引き継いだ佐藤栄作首相は徹底して吉田書簡の趣旨に従い続け、対中プラント輸出に輸銀資金を使う道は閉ざされてしまった。


このあおりをまともに受けたのがニチボーの対中ビニロン・プラント輸出だ。この商談は63年5月末に仮契約、9月20日に本調印し、LT貿易第二年度の64年に輸出を目指していた。吉田書簡では民間ベースによる延べ払い輸出を検討としているのだが、市中銀行融資となると条件が非常に厳しくなり(ニチボーの場合、金利負担が10億円増となる計算)、延べ払い輸出は事実上無理というのが当時のいわば常識である。これを百も承知の上で佐藤内閣は65年1月21日、ニチボーの輸出案件を純民間ベースという条件付きで許可した。輸銀融資は門前払いである。激高したのは、今度は中国側だ。LT貿易の中国側責任者である廖承志・中日友好協会会長は早速、「LT貿易を吉田書簡の線に乗せるなら中国は絶対に受け入れない。断然反対する。これはわれわれの揺るぎない方針である」と鋭く反発した。2月初めには陳毅外相が「吉田書簡を認めることは中日貿易に台湾の蒋介石政権が干渉することを許す結果になる」と中国政府としての強硬な態度を示した。


結局、中国側はこの年5月7日付で契約の失効を正式に通告してきた。原吉平・ニチボー社長はかねがね「中国は信義を重んずる国だ。その中国がこちらの方を向いているときに貿易をやらなければウソ」と語っていただけに、ショックはあまりにも大きかった。「政府は吉田書簡に拘束されて輸銀の使用を認めないが、この私信である吉田書簡が今後の中国貿易に対し日本国民を拘束するものであれば、政府は速やかに吉田書簡なるものを国民大衆に公表してその理由を明らかにすべきだ」と政府に迫ったのは道理に適っている。情熱的な経営者として知られ、快男児だった原さんが腹の底から絞り出したような切実な要求を、佐藤内閣は完全に握りつぶした。このプラント輸出案件が通常の商業取引であり、輸銀の延べ払い融資が決して相手国に対する援助ではない以上、倉レに認めたものを国府の介入によってニチボーに認めないというのは著しく不公平であり、市場経済への政治による不当な介入としか言いようがない。ニチボーのプラント輸出に輸銀融資を認めたからといって日米協調に悪影響を及ぼすことは、まずなかったと思われる。


当時の池田内閣、後を継いだ佐藤内閣の外交が対米関係を最重視したのはともかくとして、台湾の国府に対する過剰ともいえる気遣いは、場当たり的な事なかれ主義そのものであり、多極化する方向に進み始めていた国際情勢の中でアジアの中の日本としてどう対応するかという視点、自立的な外交戦略を欠いていた。倉レのビニロン・プラント輸出50周年のニュースは、同時に日本の悪しき政治の犠牲になったニチボーのビニロン・プラント輸出契約の失効を思い出させる。


吉田書簡は拡大気運にあった日中経済交流に大きな打撃を与えた。LT貿易は67年末で期限切れとなり、68年から日中覚書貿易に移行したが、貿易が先細りになるのは避けようがなかった。折しも中国側も「文化大革命」の混乱期に入り、対日外交は硬直化の度を強め、毎年度の貿易交渉も政治問題の討議が先行して難渋した。冷え切った日中関係の中で貴重なパイプである覚書貿易のルートをいかに守り、日中国交正常化につなげていくか、日中覚書貿易事務所代表の岡崎嘉平太さんら関係者の苦労は並大抵ではなかっただろう。「日本と中国の友好関係の確立こそアジアの平和と安定の礎という確固たる信念」(岡崎嘉平太さん)がなければ細い糸は途中でぷっつり切れていたかもしれない。


◆◇国家百年の大計を念頭に◇◆


倉レのビニロン・プラント延べ払い輸出に政府サイドで貢献した、当時、通産省通商局輸出振興部長だった谷敷寛さんが、吉田書簡が出たころ出版した著書『日中貿易案内』の中で日中経済の展望について述べている。


「日中貿易の将来を考える場合に最も重要な問題は、日本自体の百年の将来を考えた時に日中貿易はいかにあるべきかという大局論であろう。やはり本当に提携できる相手は、地理的に近接しており、歴史的文化的にも深いつながりがあるところでなければいけないのではなかろうか。(中略)今後孤立を避けて望ましい経済提携を考える場合、アメリカか、東南アジアか、ヨーロッパか、中国か、いろいろの場合が予想されるが、いずれの形をとるにせよ隣国である中国の問題を無視して進むわけにいかないことは明らかである。その意味において、これは政治の問題に移るのかもしれないが、中国との貿易問題を今後どのように進めるかということは、日本国民として回避することを許されない宿命的な課題というべきであろう。このように、日中貿易の前途は、無限の可能性を蔵しているとまでは言えないにしても、大きな可能性を持ち、わが国としては無視することのできない重要な問題であることは否定できないところである」


経済のグローバル化が急速に進む以前の発言ではあるが、基本的には現在にも通用する腰の据わった考え方で、当時の通産官僚の見識と心意気を示している。松村謙三さん、高碕達之助さん、岡崎嘉平太さんらの先達も、常に国家百年の大計を念頭に置いていた。日本の為政者に求めたいのは、歴史と真摯に向き合い、アジア諸国から尊敬されるような政策を実際の行動で示すことである。


日中関係は様々な波乱を経たにせよ、相互依存、相互補完関係があり、互いの存在が切っても切れない間柄であることは言うまでもない。お互いに、偏狭なナショナリズムが国内にはびこるのを許してはなるまい。隣国の巨大市場の持つ世界的な影響力がますます高まることは間違いなく、また東アジアの平和と繁栄にとって日中双方の良好な関係が不可欠の要素であることも確かだ。


(元共同通信記者 2014年6月記)

ページのTOPへ