ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


私の取材余話 の記事一覧に戻る

ニクソン・ショック狂騒劇(第2章) 変動相場制へ移行(松尾 好治)2014年4月

1ドル=360円の固定相場で為替市場を開き続けたいたころのこと。これはもちろん後になって明るみに出たことだが、昭和天皇に水田蔵相が円問題についてご進講した時、天皇から「欧州各国が市場閉鎖をしているのに、日本だけしないで済むのか」、「円切り上げは日本円の評価が国際的に高まり、いいことだと思う。そういう明るい面を国民に知らせる必要があるのではないのか」というご発言があったそうだ(水田さんから何人かが聞いている)。これはたいへん的を射ており、昭和天皇が円切り上げ賛成派だったことが分かる。


為替市場を閉鎖した欧州主要国がどのようにして市場を再開するのか、通貨当局は固唾をのんで見守っていたが、どうやら固定相場に復帰するのは無理で変動相場制に移行せざるを得ないのではないのか、という見方が強まってきた。金とドルの交換停止はドル相場の安定を狙ったものではないし、米国は貿易赤字を減らすためさらに通貨調整を望んでいることも次第に分かってきた。これはショック当初の「柏木―井上ライン」の受け止め方とは明らかに違う事態である。東京市場を開き続けたのは間違っていたのではないか、という疑問が頭を持ち上げるようになる。佐々木日銀総裁は8月19日には早くも「変動相場制が理論的に全く不可能とも言えない」と微妙な表現をし始めた。23日、欧州の為替市場が再開。フランスが経常取引を固定相場制、資本取引を変動相場制とする二重為替市場制を採用したほかは変動相場制に移行した。日本は固定相場でのドル買いをやめた後、28日から一体どうするのか。欧州諸国への右にならって変動相場制にするのか、それとも一気に円切り上げに踏み切るのか、ここは思案のしどころである。


◆◇主導権取るチャンス逸す◇◆


出した答えは、欧州諸国と歩調を合わせた変動相場制への移行だった。初日の円相場の終値は1ドル=342円40銭―341円30銭と5%程度の実質切り上げ水準である。「皆が同じ方向の汽車に乗るのにホームで一人だけ立ったままなのは、おかしいという考え方は確かにある」(佐々木日銀総裁)という判断に対して、切り上げた方がよかったのではないかという声が上がった。実はこの時ばかりは通貨当局の中にも短期間変動相場制で実勢を見たうえ、あるいはいきなり10%程度の円先行切り上げをする案があった。だが政治に先行切り上げを真剣に検討する精神的余裕はなく、決断する勇気も全くなかった。


仮に円の先行切り上げに踏み切っていたとすれば、ドイツ・マルクは追随上げを余儀なくされただろうし、国際的な不均衡の是正に貢献する役割を果たせただろう。ニクソン・ショックの日本元凶説を払拭し、日米間のしこりをほぐすのに大いに役立ったはずだ。それは国際通貨体制改革問題に重要な一石を投じ、国際通貨の新たな秩序の形成に進んだ可能性すらある。当時の日本の消極的な横並び意識と行動は、日本が改革の主導権を取るチャンスを逸する結果に終わったのである。この点ではメディアも反省する必要があろう。この際円の先行切り上げをした方が日本の国益にも世界全体の利益にもなるとして世論を喚起することは一切しなかった。夜討ち朝駆けに明け暮れているだけでなく、IMF体制がなぜ崩壊に至ったのか、日本がこれにどう関わったのか、国際通貨体制の再建をどう進めるべきかなど、肝心の問題点について、社内で冷静に分析する必要があった。そういう問題意識が全体として希薄だったと思う。


この時期、日本が構造的な黒字国になっていたのは間違いなく、世界経済の中で既に冠たる地位を占めていた。ただ自らの実力に対する自信と自覚はどうだったのだろう。円の変動相場制への移行後、私が得た第一線の有識者の発言は非常に刺激的だった。


吉井陛ソニー常務(後に専務)の発言。「(実質円切り上げで壊滅的打撃という悲観論に対し)日本は北海道を失ったようなものだと言う人がいるが冗談じゃない。円の購買力が強くなったのだ。アラスカ一つもうかったようなものだ。ソニー株はニューヨークで16ドルが17ドルに上昇した。どうも輸出が大変だと騒ぎすぎる。米国が課徴金をかけようが円を切り上げようが全然心配要らない。マクロでは暗いが、国際分業体制の中で明るさを取り戻す」。あきれるほど鼻息が荒いのにはびっくりした。


大蔵省内で近藤道生銀行局長(後に国税庁長官、博報堂社長、会長)は円切り上げ問題に直接の関わりはなかったが、かねてから強い関心を持って独自に情報を収集し、分析していた。「一昨々年(1968年)の金の二重価格制で今日の事態は既に予知されていた。日本経済の力がついてきたのだから本来ならば自ら切り上げ、円の購買力を高めなければならないのだが、一部への打撃、政治的に反対する動きがあるから、なかなかできない。(ニクソン・ショックは)当然来るべくして来たものだ。これで日本経済の力がさらについてくれば、また切り上げればよい。日本と西ドイツが一方的に犠牲を被るというよりは、かなり柱的な役割を果たし、各国が微調整するということは考えられる。日本は相当大幅に(切り上げを)やってもびくともしない」。日本経済の力に対する満々たる自信である。ただ近藤さんの判断が大蔵省全体のコンセンサスになっていたわけではない。


金融界切っての国際派の実力と風格を備えていた内山良正・日本興業銀行資金部長(後に同行副頭取、日産自動車副社長)も同じく自信たっぷりである。「円切り上げを相当大幅にやっても日本経済は大丈夫だ。日本の場合、加害者意識がなさ過ぎる。必要になればまた通貨調整をやればよい。いま経済体制の矛盾が出てきているからこそ、社会主義的な長所を各国とも取り入れようとしているのではないか。これを機会にわが国としては、住宅産業に思い切って投資することをやっていかなければならないだろう。ドルと日本円の差は15,6%が常識だろう」。内山さんは、日本のすさまじいほどの輸出攻勢が相手国産業に深刻な打撃を与えていることを自覚しないのはあまりにも自分勝手すぎると、日本にも責任があることをも鋭く指摘したのだ。円の切り上げ幅についてもきちんとした見通しをつけていた。


オールラウンドに日本経済の隅々まで目配りしていた中村孝士・日本勧業銀行調査部長(後に第一勧業銀行監査役、東京経済大学教授)も日本経済の実力向上を認めた。「変動相場制で実質的に円切り上げに踏み込んだ。日本円の地位向上を追認したものだ。これだけで日本の経済構造が大幅に変わるとか、成長が鈍化して横を這うとかは考えられない。円がここまで強くなってきたのは、物価安定をしながら高成長を続けてきたからだ。この際 日本は円切り上げをやらなければならない。米国もドルを切り下げるべきだ。ニクソン・ショックで景気のV字型の上昇テンポは鈍化するにせよ、4-6月に底入れ後徐々に上昇しており、また落ち込むことは考えられない。実質的切り上げによっても鉄鋼、自動車、弱電、光学機械は相対的競争力では優っている。雑貨、繊維は課徴金などでかなり不利な条件で競争しなければならない。これからは価格競争力では発展途上国にかなわない。中小企業はコペルニクス的転換を必要とする。品質の高度化、質的競争力を強化しなければならない」。この機会をとらえて中小企業を叱咤激励したところは、いかにも中村さんらしかった。これら有識者の発言は、国際的に通用する当時の日本の良識をはっきり示している。

自らの力に対する認識、国際的な責任、先見性が政治に望めない以上、国際通貨外交における日本のプレーヤーとしての役割に大きな期待をかけることは初めから無理だったと言えるだろう。


◆◇対米不信感と対日包囲網の中で◇◆


通貨の混乱は続いている。このままでは世界経済の無秩序、保護貿易の高まりで世界的なリッセッションに陥る危険性が現実味を増してくる。多国間通貨調整をする兆しが見え始めた。高度の政治問題だから閣僚レベルで話し合わねばということで、9月15日にロンドンでの十カ国蔵相会議がセットされた。この会議は赤字国である米国の責任を巡って米国と日本、欧州が対立し、事実上はケンカ別れだったようだが、円の大幅切り上げを求める圧力が一段と増大してきたことは、だれの目にも明らかだった。最早切り上げを逃れることはできない。9月上旬以来、米国ウィリアムズバーグでの第8回日米貿易経済合同委員会、トロントでの日加閣僚委員会に次いで十カ国蔵相会議に出席して18日帰国した水田蔵相は特別声明を発表し、「主要国が共同行動を取る場合、妥当な範囲内の円切り上げは日本にとって必ずしも不利ではない」と初めて円切り上げの意思を公式に表明した。


この時の水田蔵相の記者会見での発言は、当時の日本の置かれた状況と通貨当局の思惑を割合正直に物語っている。「IMF体制が崩れて今回のこのような混乱になった以上、この事態に即して本当の解決を求めなければならない。互いの平価をいじるのは避けられない。(欧米諸国は)米国の赤字の対象が日本と思い、場合によっては日本に全部背負ってもらいたいという気持ちが潜在的にある。よその国から見ると、円の圧力でこうなったということになる」としたうえで、「それくらい、基礎的な不均衡云々は別としても円が強くなっているのは事実であり、秩序の中に円を置かないと一つも得はない。不安定が解消し、実態に応じて新しい競争の中に入るのは、日本の産業の体質を本物にすることに役立つ」と語った。これは通貨調整に当たっての日本の極めて厳しい環境を訴えると同時に、円切り上げに強い懸念を持つ経済界、政界の説得工作に乗り出したことを意味している。この後の通貨交渉については「米国の意向如何によっては各国とも変わってくる。日本が単純に何%上げるということは絶対に言えない。それは各国間の話し合いによって決まる。不当な切り上げ幅では困る」と条件闘争で切り上げ幅をできるだけ縮小させる作戦をうかがわせた。


事実、通貨当局は円の大幅切り上げを避けるための時間稼ぎとして、また政界、経済界からの反発から逃れるため、変動相場制の円相場に 介入し、円を緩やかに上昇させる方策を取ったのである。この後ワシントンでのIMF総会の前日9月26日に開かれた十カ国蔵相会議で通貨調整協議の手順を決めたのだが、これより前に米国が20%以上の大幅な円切り上げを要求していることが明らかになり、通貨当局の苦悩はさらに深まった。英国は「日本が大幅な切り上げに応じなければ国際通貨の再調整はできない」と完全に米国の肩を持つし、西ドイツも過去三回マルクを切り上げた実績(うち一回は変動相場制による事実上の切り上げ)を背景に日本の円相場介入に対する強い不満を公にし、円の大幅切り上げは当然という態度だった。国際通貨調整の決め手は米国、日本、西ドイツの三国であり、日本が最大の切り上げ国になるのは最早既定路線というムードになってきた。この日米独の関係を二等辺三角形に例えれば、長い底辺(土台)が日本に他ならない。次回の十カ国蔵相会議の日程がセットされるまでは主に関係国間の舞台裏の交渉、腹の探り合いということになるのだが、日本が積極的な行動に打って出ないうちに、対日包囲網が着々と形成されつつあった。


太平洋戦争前夜と同じで、すっかり包囲された結果、いたたまれず清水の舞台から飛び降りるのではないか、と見る向きがあった日本の政治だが、そのような勇気もまるでない。ただ色々な思惑は政治家の間で渦を巻いていた。水田蔵相にはこの問題に決着を付けてあわよくば総理にという思いがおそらくあっただろう。外野席からは次期総理の有力候補者である福田赳夫外相が最終的に円切り上げを決めるのではないかという声も出る。福田さんは水田さんの前任の蔵相で、澄田智・前大蔵事務次官(後に日本輸出入銀行総裁、日銀総裁)がブレーンの立場にあり、佐々木日銀総裁との関係も緊密である。福田さんのバックには岸信介元首相がいた。その岸氏が円切り上げ幅について米側に申し入れたと10月下旬、全国紙の一部が報じてちょっとした騒ぎになった。岸氏に通貨問題で話す権限も知識もあるはずがなく、これは明らかに誤報であり、実際は円切り上げ問題で力があるのは福田外相と米側に言いに行ったのではないかと推測された。この時、佐々木日銀総裁は「岸元首相から米側に切り上げ幅などについて申し入れたという事実はない。こういう記事は末期的症状だ」と珍しく怒りを露わにした。


通貨当局は国内の空気には絶えず気を使っており、水田蔵相、福田外相、田中通産相の顔がそれぞれ立つようにするのが暗黙の了解だったと言える。この三者間で水田蔵相は結局脇役になるのではないか、といううわさが霞が関でまことしやかに伝えられたこともあった。水田さんにしてみれば、自分では決められないので、やはり福田外相がやらなければならないというムードが出てくるのを一番恐れていたのは確かだろう。福田外相や田中通産相が円切り上げ問題でとやかく発言するのを水田さんはたいへん嫌がっていたようだ。当時「決断なき政治」と揶揄された佐藤政権の下で、円防衛対策の柱とされた自由化、関税引き下げなどで各省間の折り合いは容易につかず、これとの絡みで円切り上げ問題の調整がややもすれば空回りしかねない国内情勢があった。佐藤栄作首相はじっとしたまま全く動意を見せない。


ぎくしゃくする日米関係の中で、このころ円問題のほかに二つの大きな出来事があった。一つは国連における中国代表権問題である。ニクソン政権は中国との和解に踏み切る一方で、中国の国連加盟を認めるが台湾の追放には反対するという二重代表制決議案と台湾の追放を三分の二の賛成を必要とする重要事項に指定する決議案を用意し、日本に共同提出国になるよう働きかけた。これには自民党内にも反対があったのだが、佐藤首相は9月22日、二つの決議案を共同提案するとの政府決定を発表した。ところが日本側がこの決定に沿って関係国に説得工作をしている最中、キッシンジャー特使がニクソン訪中に備えて密かに北京を訪問し、佐藤政権を痛く傷つけた。10月25日の国連総会における投票結果は共同提案国側の惨敗で中国代表権問題は決着した。佐藤政権の面目は丸つぶれである。もう一つは10月15日に対米繊維輸出自主規制に合意したことだ。これはこじらせ過ぎた挙句の果てに、法律によって輸入制限するというニクソン政権の脅しに屈した形となり、日本側に挫折感が広がった。いずれも日本側の対米不信感を募らせる材料になったのである。こうした状況は通貨交渉の当事者にも陰に陽に影響した。


◆◇“コナリー台風”の来襲◇◆


通貨調整問題で米国は自らはやれることはやったので、次は日本、欧州が何か措置を取る番だと悠然と構えている。このころ大蔵省幹部が胸中を漏らした。「米国がパンにバターをたっぷりつけて食べようというのに、日本が三食を二食に減らしておにぎり一つ半で沢山だとも言えないだろう。米国のやり方は移民法と同じだ。欧米諸国間では“おい、ジャック”と呼び合える間柄だが、日本は違う。西ドイツが競争力で優れていると、(米国は)技術面でやられたと言うだけで済むが、日本の場合やれ公正競争に違反するのどうの、ということになる。同じことをしていても“女だてらに”と言われるのと同じだ。ワシントン軍縮会議の5対5対3と似ている。向こうは百年戦争の構えだ」。


米国の排日移民法(1924年)は当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人移民をシャットアウトするのが狙いで、それ以来米国は終始、対日強硬姿勢を取るようになった。ワシントン軍縮会議(1921-1922年)は主力艦の保有比率を米国、英国をそれぞれ5、日本を3とし、日本の膨張に歯止めをかけようとしたものだ。こういう例を挙げざるを得ないほど、通貨当局者が対米不信感を抱いていたということだ。しかも欧米は英仏百年戦争(1337-1453年)並みに百年でも耐えられそうな余裕があるのに対し、日本は応仁の乱(1467-1477年)の十年間も持ちこたえるのは無理という彼我の違いから通貨当局のストレスは増すばかりだった。このころ、日本経済の実態面は金融が緩んでいることもあって決して悪い状況ではなく、貿易黒字も続いていたが、通貨の不安定で先行き不安感が広がっており、通貨問題の一刻も早い解決を迫る内圧が高まる傾向が出てきていたのである。


米側の通貨交渉の立役者、コナリー財務長官はその強引な手法がよく知られていて、日本側からかなり嫌がられていた。そのコナリー氏が東南アジア旅行の途中日本に立ち寄りたいとの希望を伝えてきた。招かれざる客だから最初は来日を断ったのだが、通貨問題で交渉しないという条件でしぶしぶ受け入れることになった。11月9日から13日にかけて“コナリー台風”の来襲である。せっかくの機会だから米側がどこまで譲歩する気があるのか探りたいというのが日本側の腹の内だった。10日の水田・コナリー会談で冒頭話題になったのは中国の国連加盟問題である。「中国、ソ連、EC(欧州共同体)が新しい大きなトレイド・パワーとして誕生しつつある」としたコナリー発言は目新しかった。米国は既にこの時から中国の潜在力を高く評価していることをうかがわせたのである。


この後の記者会見での水田蔵相の発言のさわりはこうだ。「カバンの中に向こうは何も入れてこなかった。日本に対する要望、解決を迫る問題は最初からない。米国に軟化の兆しがあるようには取れない」。コナリー財務長官の11日の記者会見は前日の水田さんの発言と口裏を合わせているようだった。「日本の通貨についていかなる要請もしていない。日本がいつ、どのような方法で(円切り上げを)行えるか、日本政府が判断できる。米国が指示する立場ではない。日本円をどこまで切り上げるかを皆にアドバイスするほど野暮ではない。コナリー旋風ではなく、春先の温和な風としてやってきたことを申し上げたい」。この両者の発言からは会談の実際のやりとりは全くと言っていいほど分からなかった。この時米側が日本とECが共同作戦を取ることを牽制するとともに、米国の赤字の相当部分が対日貿易から生じているとして、24%の大幅円切り上げを要求したことが分かったのは通貨交渉が決着した後のことだった。コナリー氏のいわば恫喝である。メディアは完全に一杯食わされた。そういえば11日夜、大蔵省幹部は「コナリーを引きずり降ろさなければ駄目だ」と吐き捨てるように言っていた。多分怒り心頭に発していたのだろう。振り返ってみれば、コナリー来日は、“小春日和のそよ風”どころか、やはり“台風”だったのである。


通貨交渉の全体の状況はといえば、米国が金とドルの交換性を将来にわたり再開する意思が全くないことは、はっきりしている。ところが準備通貨としてドルを保有していた欧州諸国はこのドルを金と交換できなくなったことに大きなショックを受けた。この問題で妥協の余地がない以上、今後の国際通貨体制の基本的な方向の議論に入るのは容易ではない。とすればドルの交換性の回復は引き続き検討するとして中間安定による収拾策を検討するしかない。この路線で解決策を探るに当たり、フランスなどは保有する金の値打ちが下がるのは絶対に困るとの立場から何らかの形によるドル切り下げ、具体的には金価格の引き上げを強く求めた。さらに日本、欧州諸国共に輸入課徴金の撤廃を通貨調整の前提条件とした。この輸入課徴金については米国も関係国の対応如何で撤廃する意向を示していたが、ドル切り下げ、金価格引き上げでは歩み寄る気配がない。日本が最も恐れたのは、米国があくまでも譲歩しない場合、ECが全体としてブロック化し、欧州にも米国にも輸出できなくなり、世界の孤児になるシナリオだった。“コナリー台風”が去ってから、そのコナリー氏が通貨問題はブラント首相とポンピドー大統領の独仏首脳会談待ちと発言したことが伝えられてきた。通貨当局の間には「日本はまるでそっちのけだ」という孤立感が漂い始めた。


このまま推移すると、通貨、貿易の混乱から本当に世界的な不況になり、資本主義の危機を招くのではないか、という声も聞かれる。11月半ば過ぎ、佐々木日銀総裁は「日が経つにつれて希望が薄れていくような感じだ。米国は世界的不況に対しては無関心で、自分のことだけで頭がいっぱいなのだろう」と弱音を吐いた。水田蔵相も「だんだん年内は(解決は)駄目だという感じになってきている」と悲観論に傾く有様である。(第3章へ続く)

(元共同通信記者 2014年3月記)

ページのTOPへ