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ベトナム断想Ⅰ テト攻勢―衝撃の一日(友田 錫)2013年3月

それは正真正銘の奇襲攻撃だった。


1968年1月31日の朝、支局兼用アパート入り口のベルが2回、3回と鳴った。午前7時ごろだったと思う。テト、つまり旧正月の休戦で夜間外出禁止が久しぶりに解除されたとあって、前夜、話の合う共同通信特派員のアパートでウィスキーを酌み交わしながら夜中までおしゃべりをしていた。自宅に戻り眠りについたのは午前1時ごろだった。その眠い目をこすりながらドアを開けると、隣に住む上半身はだかでパンツ姿の若いお巡りさんが立っていた。


「おまえは今日働くか」という意味のことを、彼はベトナム語と片言の英語でもぞもぞと聞いてきた。テトの2日目、日本でいえば正月三が日のこととて、ベトナム人はみな仕事を休み、お祝い気分にひたっていたからだ。


「何かあったら働くよ」と答えると、やおらお巡りさんがいった。

「ベトコン、アタック、アタック、バンカー・ハウス」。


一瞬、頭からさあっと血の退くのがわかった。彼の英語では、バンカー・ハウスというのは当時のアメリカ大使、エルズワース・バンカーの家、つまりアメリカ大使館のことらしい。ベトコン、すなわち解放戦線部隊がアメリカ大使館を攻撃している、と彼は教えてくれたのだ。安月給で子沢山のこの若いお巡りさんには、わが家の炊事をしてくれるお手伝いさんが、日ごろおかずを分けてやっていた。その「恩返し」の気持ちからだろう、彼は朝早くに「大ニュース」を教えてくれたのだ。それも、「今日、働くか」と、いかにも控えめなベトナム流の切り出し方で。


この瞬間から、私にとってのテト攻勢の一日がはじまった。


◆アメリカ大使館の惨状◆


すぐにラジオの米軍放送のスイッチを入れた。共産兵力(解放戦線部隊のこと)が午前3時を期して首都サイゴンをふくむ全国の主要都市、軍事基地にいっせいに攻撃を仕掛けており、サイゴンではアメリカ大使館のほか、大統領宮殿、タンソンニャット空港の空軍基地、サイゴン川に面した海軍基地、放送局など7ヵ所が攻撃されていると、アナウンサーが上ずった声で叫んでいた。


ビルの4階にあるアパートの窓から外を見ると、完全武装の兵士を満載した南ベトナム政府軍の軍用トラックが、通りをあわただしく走り抜けていく。それ以外には人っ子ひとりいない。米軍放送は、町には24時間の全面外出禁止令がしかれており、許可なく歩いているものは撃たれることがあると、繰り返し警告していた。


アメリカ大使館に行こう。わたしは取るものもとりあえず、腕に「BAO CHI」(バオ・チ、日本語の報知にあたるベトナム語、つまりプレスのこと)と記した腕章を巻き、首からカメラをぶら下げただけで通りに飛び出した。


ほとんど駆け足で600メートルほど離れたアメリカ大使館の正門付近にたどり着いた。午前9時近かったと思う。戦闘がちょうど終わったところだった。自動小銃をわしづかみにし、目を血走らせた米兵たちが正面玄関の前にかたまっていた。大使館の職員らしい民間人の姿もあった。大使館を取り巻く高い、真新しい塀には、大きな穴が口を開けていた。敷地には、決死隊の印なのだろうか、腕に赤い腕章をして、ゴム製のホーチミン・サンダルをはいたベトコン・ゲリラの死体があちこちに横たわっている。一人は童顔で、腕がもぎ取られて血の海にひたっていた。あとでわかったのだが、このゲリラたちは解放戦線の正規部隊の中から選抜された特殊攻撃隊だった。


アメリカ人職員の話。午前3時ごろ、およそ二十人のベトコン・ゲリラが二手に分かれて、正門と塀に対戦車ロケット砲を打ち込んで破壊し、AK47自動小銃を撃ちながら構内に乱入してきた。テト休戦、つまり休日なので、大使館には海兵隊の警備兵6人とベトナム人警官数人、宿直のアメリカ人職員数人が残っているだけだった。不意を衝かれたうえに劣勢のこととて、必死に防戦してもじり、じりと押された。一階から二階、二階から三階、四階へと追い詰められた。あとは最上階、というところで、救援の第101空挺師団の一個中隊がヘリコプターで屋上に降下し、陸上ではこれまた駆けつけた米海兵隊の兵士とMP(憲兵)たちが、屋内に侵入していたベトコン・ゲリラを攻撃した。上からと下から挟み撃ちにされたベトコン・ゲリラは圧倒され、ついに捕虜ひとりを残して他は全員射殺された。アメリカ側も海兵隊員と憲兵隊員それぞれ数人の犠牲者が出た。


「インデペンデンス・パレス(独立宮殿、大統領官邸のこと)も攻撃されている」とこの職員から教えられ、すぐさま、数百メートル離れた大統領官邸に向かった。戦闘の舞台は正門ではなく、裏門付近だった。門の内側に詰めかけた警備隊と向かい側のビルに立てこもったゲリラたちとの間で、激しい銃撃戦が繰り広げられていた。


◆アスファルトを掻きむしりたい◆


幅10メートル前後の道路の端を、民家の建物の壁に身をすりつけるようにして進み、裏門に近寄っていった。撃ちあいは道路をはさんで門の内側と向かい側のビルの窓との間で行われていたので、ビル側の家並みの塀に沿って進めば弾は飛んでこないだろうと、一瞬頭の中で計算したことを覚えている。途中、ベトコン・ゲリラの死体がひとつ、転がっていた。裏門近くにたどり着くと、顔見知りの中年のAP通信の支局長の姿があった。彼もまた、塀にへばりついていた。


突然、頭の上を銃弾が飛びかいはじめた。警備隊の何人かが、裏門から少し離れた官邸の塀の内側、ちょうどわたしの真向かいのあたりから、ベトコン・ゲリラの立てこもっているビルに銃を撃ちはじめたのだ。すぐさま、ゲリラもその警備隊に応戦した。上から、銃弾があたって切れた電線がぱらりと垂れ下がった。近くの塀ぎわの電柱にも、びし、びしと警備隊側の撃った流れ弾が当たった。わたしはとっさに地面に伏せた。一センチでも身を低くしようと、身体の下の舗道のアスファルトをかきむしりたい気持ちに襲われた。


頭上に銃弾が飛び交っていたのは、実際には数分間だったのかもしれない。だが、わたしには十分以上も続いたように感じられた。一瞬、銃声が途絶えた。あたりが静寂、というより音の真空につつまれた。いつはじまるか。頭を抱えながら、耳を澄ませた。数秒たったが、発射音がない。いまだ。わたしはがばと身をおこし、脱兎のごとくもときた道を駆けもどった。


午前10時前後だった。2時間の時差のある東京の本社では、夕刊の締め切りがせまっているはずだ。とにかく、第1報を送ろう。支局にもどって原稿を書いているひまはない。支局の近くに、南ベトナム政府情報省が外国プレス用に設けているテレックス・センターがあった。ふだんは情報省のテレックス用タイピストが5、6人、昼夜交替で詰めていて、外国記者が持ち込んだアルファベットの原稿をタイプして鑽孔テープをつくり、それを送信機に装着して送信先のテレックス受信番号を呼び出し、送稿してくれる。わたしは、このテレックス・センターに飛び込んだ。


さいわい、正面入り口の分厚い木の扉には鍵がかかっていなかった。だが、全面外出禁止令下のこと、中には人っ子ひとりいない。仕方がない、自分でやるしかないか。それまで、外国記者たちの原稿が山積みになっていて、職員の手がまわらないでいるとき、見よう見まねで自分で空いている機械で鑽孔テープをつくり、直接東京本社に送稿したことが何度かあった。いまは鑽孔テープなどつくっている時間がない。テレックスで東京本社を呼び出し、キーを直か打ちしよう。


テレックスのスイッチを入れた。機械がブーンとうなりはじめた。しめた。テレックスは電話と同じ仕組みなので、ダイヤルをまわして本社のテレックスを呼び出す。つながった。頭のなかで大急ぎで記事のリードと本文を組み立てて、テレックスのキーをたたきまくった。なんとか原稿を夕刊に突っ込むことができた。


原稿を送り終えて、近くにある支局兼アパートにもどるとすぐに、米軍放送が、サイゴンからの通信途絶を報じた。市中心部にある電信電話局が攻撃されて、いっさいの通信が遮断されてしまったという。間一髪のところで、東京への第1報が間に合った。


◆花の下に武器を隠して運び込んだ◆


それにしても、解放戦線はどのようにして、これほどまでに完璧な奇襲を準備できたのか。1、2週間たって攻撃の巨大な波がいったん退くと、わたしの耳にもいろいろな情報が入ってきた。最大の謎は、市街戦を各所で繰り広げるだけの大量の武器をどうやってひそかに市内に持ち込むことができたのかだ。ある国会議員から、はたと膝を打ちたくなる説明を聞いた。「奴らは花を運び込む荷車に武器を隠したのさ」。


日本の正月は門松だが、ベトナムのテトでは、どの家庭も家の内と外とに花をふんだんに飾りつける。毎年、テトがはじまる前には、近郊からもろもろの花を積んだ大八車ぐらいの荷車が続々市内にやってくる。大通りは、花市場に早変わりして、アオザイ姿の娘さん、おばさんたちがよりどり見どり、好きな花を腕いっぱいに抱えて帰っていく。だが、この年、花を積んだ荷車は、どれもひどく重かったはずだ。花の束の下には、自動小銃や小型ロケット砲、地雷や手投げ弾などがびっしり隠されていたのだから。


ゲリラたち、といってもこの場合は解放戦線の戦闘部隊の兵士たちだが、彼らは手ぶらのまま、一般市民とおなじ服装で三々五々、市内に入ってきた。そして31日の未明、別途運び込まれた武器を取り出して、いっせいに攻撃の火ぶたを切ったのだ。ただ、わからないのは、花の荷車に武器が積まれていたとしても、その事実が決起の当日まで市民の間に伝わらなかったのはどうしてなのだろう。花の荷車に接したのは、何も解放戦線の工作員だけではあるまい。気がついていた市民は、何らかの理由で口をつぐんでいたのだろうか。


その真相はともかく、このテト攻勢で、街の住民の間にひそんでいた解放戦線の秘密工作員の多くが、その正体を明るみに出してしまった。親しいベトナムの友人は、長年つき合っていた近所の床屋さんが突然、テト攻勢が始まった直後、自分は解放戦線のメンバーだと名乗りをあげたのにびっくりした、と話してくれた。あとでわかったのだが、ハノイはこのいっせい攻撃を人民の蜂起につなげて、革命政権を樹立することを目指していたらしい。それで、秘密工作員たちもそのベールをぬいで、人民蜂起の準備にとりかかろうとしたのだろう。


だが、蓋をあけてみると、人民蜂起は起きなかった。テト攻勢―正確には第一波―が完全に終わるまでにはほぼ1か月かかったが、その間に態勢を立て直した米軍や南ベトナム政府軍の反撃で、米軍の発表によると、推定6万7,000人とされた解放戦線の戦闘兵力は3分の2が壊滅した。水面に顔を出してしまった秘密工作員たちは、南ベトナム政府の秘密警察や公安当局、米軍特殊部隊の手で、鎌で刈り取られる芦のように次々に摘発されてしまった。少なくとも南ベトナムの戦場では、奇襲の衝撃から立ち直った米軍と南政府軍が、解放戦線への巻き返しに成功した。


しかし皮肉にも、このテト攻勢の政治的な勝敗を決することになったのは、心理戦の戦場だった。この戦場は、南ベトナムから1万6,000キロ彼方、太平洋を隔てたアメリカの国内にあった。それまでくすぶっていた反戦の世論の火が、テト攻勢が導火線になって、一気に、しかも全土で燃え上がり、アメリカのベトナム政策を180度変えてしまったのである。


◆テレビがベトナム戦争の行方を変えた◆


さて、わたしの第1報が夕刊に間に合ったというのは一記者の職業的な自己満足でしかないが、ほぼ同じころ、もっとスケールの大きいスクープを、いまは亡きNHKの斉藤三次カメラマンが世界に向けて放っていた。やや小柄で、見るからに敏捷そうな斉藤カメラマンとは、何度か仕事の現場で一緒になり、顔見知りだった。


のちにNHKのサイゴン特派員をつとめた田中信義氏は、著書、『時を視るⅢ』(東海大学出版)の中で、このときの斉藤カメラマンの取材ぶりを紹介している。それによると―。


その日、朝早くからサイゴン市内のテトの情景をフィルムにおさめようと、斉藤カメラマンは同じくNHK支局員の田中至記者といっしょに街に出ていた。アメリカ大使館の方角で銃声が聞こえたので、すぐさま駆けつけた。ちょうど、救援の米海兵隊がアメリカ大使館に突入するところだった。斉藤カメラマンはかれらにまじって大使館の構内に入り、救援隊とベトコン・ゲリラとの攻防の生々しい”実況”と、構内に米兵やゲリラの死体が散らばっている凄惨な光景をフィルムにおさめた。


斉藤カメラマンは、わたしが大使館に駆けつけるほんの少し前に、すでに大仕事を終えていたのだった。


アメリカの著名な外交ジャーナリスト、ドン・オーバードーファーの著『Tet!』(邦題は『テト攻勢』、鈴木主税訳、草思社)によると、NBCとCBSもほぼ同じ時刻に大使館内外の攻防を収録し、その映像は24時間後に全米で放映された。だが、NHKの映像はもっと迫力にみちていたようだ。これが放映されると、日本はもちろん、世界で大きな反響を呼んだ。サイゴンにいたわたしの耳にも、東京から、斉藤カメラマンの”偉業”をたたえる声が伝わってきた。


いま振り返ってみると、このテト攻勢は、ベトナム戦争の最大の転換点となった。それまで派遣軍最高司令官のウィリアム・ウェストモーランドをはじめ、米軍や政府は「戦況はわれに利あり」、「戦争が終わる日もそう遠くない」と主張してきた。ところが、ある日突然、首都もふくむ南ベトナム全土の主要都市や基地がいっせいに共産側に攻撃され、あまつさえアメリカ大使館も危うく占拠されかけた。しかもそのリアルな光景を、テレビによって全米のほとんどの国民が目にしたのだ。先にも触れたように、政府への不信、そしてベトナムから手を引くべしという反戦機運が一気に噴き出した。


その結果、時の大統領、リンドン・ジョンソン(民主党)は、その年の大統領選挙への再選をめざす出馬をあきらめて、北ベトナムに和平交渉を申し入れた。そして大統領選挙では、ベトナムからの撤退を旗印にした共和党のリチャード・ニクソンが勝った。


以後、ベトナム戦争の歩みは、パリでの和平交渉スタート、3年後の和平協定調印と米軍全面撤退、それから2年後の北による南全土の制覇とサイゴン陥落、翌年の南北ベトナムの統一―と、急な坂を転げ落ちるように終焉に向けて展開していく。


なかでも大事なのは、ニクソン-キッシンジャーのコンビが、対ソ牽制とベトナムからの「名誉ある撤退」の実現という二股をかけた大戦略を描き、ハノイの最大のスポンサーだった中国に接近したことだ。もちろんソ連の脅威の重圧にあえいでいた毛沢東-周恩来のコンビも、わたりに舟とこれに応じた。そしてついに1972年、ニクソン訪中が実現した。テト攻勢からわずか4年しか経っていなかった。


このニクソン訪中で、片や中国、片や大国の名を辱めない形でベトナムから引き揚げたい米国、この両巨人の蜜月の関係がスタートした。またこの米中接近の延長線上で、日中正常化があれよ、あれよという間に陽の目をみる。その後の世界は、米ソ二極がにらみ合う東西冷戦の構造から、一方で米ソのにらみ合いが続きながら、他方では米中が連携し、中ソが対立していくという、まったく新しい構造に変化していった。


それもこれも、発端はテト攻勢にあった。しかも、アメリカのベトナム戦争離脱を促した世論の変化の原動力となったのは、メディアのベトナム報道、とりわけテレビが現地から生々しい戦場の実相を国民のお茶の間に直接伝えたことだった。NHKの故斉藤カメラマンの文字どおり命がけの取材の結晶であるフィルムも、アメリカのテレビ局の映像とともに、ベトナム戦争の転換、大げさにいえばそれに続く世界の構造的変化を引き起こす一助になったのだ。


いま、新たなメディアの形態、インターネットを通じるコミュニケーションのツールが、社会のあり方、世界の仕組みに大きな影響をもたらしはじめている。中東世界に出現した「アラブの春」はその一つの例にすぎない。


40余年前、テレビがはじめて戦争の方向を変えた。ではこれから新しいメディアは、ジャーナリズムに、はたまた世界に、どのような未来を拓いていくのだろう?


(元産経新聞記者 2013年3月5日記)
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