ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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モンブラン氷河滑降(黒岩 徹)2010年3月

  そのアイディアは、突然、天の啓示のように閃いた。大学教師の職を終えた後、なにをしようか、とぼんやり考えていたときである。モンブラン大滑降と名付けられた氷河スキーに挑戦しようとの思いが浮かんだ。

 かつてTBSのニュース・キャスターを務めていたとき、冒険スキーで名高い三浦雄一郎一家にスタジオに来てもらったことがある。雄一郎氏の父、敬三氏が99歳でこの氷河スキーに挑み、孫の豪太君も含めて、親子三代で一緒に滑り下りた体験談を語ってもらった。敬三氏の冒険行は、老年族を興奮させ、年齢の限界を超えうる人間の可能性を示してくれた。私も今年古稀になる。体力の残る六十代の最後に、三浦敬三氏には及ぶべくもないが、冒険に挑戦しようと思い立ったのだ。

 だが、調べてみると危険と隣合わせであることが分かった。標高1000メートルのフランス・シャモニーから富士山より高い3840メートルのエギュー・デュ・ミディにゴンドラで上り、そこから氷河の上を20キロ、標高差2800メートルを滑り下りる。途中ここかしこにクレバスがある。ひとたび下り始めると途中で避難できる山小屋は一つしかない。晴れていれば上級スキーヤーには難コースではないが、山の天気は変わりやすい。毎年何人もが、クレバスに落ちたり、心臓麻痺で死んでいる。

 氷河行を決めてから、したことが二つある。一つは、ガイドをつけなければならないとはいえ、最後の頼みは自分の体力である。体力をつけねば、と、今年に入って毎晩、自宅近くの馬事公苑の周りを3-5キロ走り始めた。もう一つは、万一に備えて遺言書をつくることだった。新聞記者時代、戦争取材に行く前、何度か遺書を書いたことがある。その当時は子供たちに、母を守って仲良く生きていくように、といった人生訓的なものを書いたが、今回は、自宅などわずかな財産をどう処分すべきかという相続問題だった。「遺言書のつくり方」といったたぐいの本が随分出版されていることに驚かされたが、その書き方や遺言書の取り扱い方も結構面倒であることにびっくりした。相続問題に自分がいかに無知であるか、を思い知らされた。

 遺言書を書いていると、新聞特派員時代に死を覚悟した時の情景が浮かんでくる―――
◇               ◇

  特派員になりたてのころ、当時ローデシア(現ジンバブウェ)と呼ばれた国の内戦取材に出かけた。白人の政府軍と黒人からなる反政府軍とが死闘を繰り返していた。たまたま内戦取材に来ていたイギリス人記者とスイス人カメラマンとジープをレンタカーして東部の政府軍前線基地を訪れた。野戦司令官にインタビューして帰ろうとしたとき、スイス人カメラマンが怒り出した。「おれはいい写真を一枚も撮っていない。野戦司令官が座っているだけでは絵にならない。せめて政府軍兵士が銃をもっているところでも撮りたい」。新聞記者は話を聞けば記事になるが、カメラマンはそうではない。彼の言うことももっともだ、と二人の記者は納得して、私が運転するジープで前線に向かった。戦争取材の長いイギリス記者は言った。「地雷が危ないから俺がストップといったらブレーキを踏め」。土が掘り返されているところは、最近地雷を埋めた可能性がある、とのことだった。

 林の木がまばらになったあたりで彼が叫んだ。「ストップ」。続いて「外に出ろ」。さらに「伏せろ」。彼の命令に従って伏せていたら、はっきり分かった。われわれは、交戦の真っただ中に入ってしまったのだ。銃弾が木にあたって「ピシュッ」と音がする。石に当たると「ビュン」という音。これで死ぬのか、と体が震えた。そうなると緊張感で一杯になる。尿意をもよおした。我慢したが我慢できない。といって起き上ったら危険だ。仕方がなく伏せたまま、体を横にしてズボンのチャックをはずして放尿した。私はパニックになっていた。体の向こう側が斜面になっており、出された水が戻ってきて私のズボンを濡らしてしまった。イギリス人は小さい時から「ドント・パニック(あわてるな)」と教育される。パニックになっては正常な判断ができなくなるからだ。だがイギリスにいて私はこの教えを体得していなかった。銃声が止んでしばらくしてイギリス人記者が「今だ」と逃げ出す命令を下した。私は濡れたズボンのまま運転台に滑り込んだ。

 最初の戦争取材体験は、ずっこけだった。北アイルランド騒乱取材の時もそうだった。以下は当時特派員として私が書いた記事である――。

 北アイルランド紛争解決を求めた和平草案「合意のための新しい枠組み」の発表を機会にベルファスト(北アイルランドの首都)に取材に行った。そして、みぞれ降る寒さの中、思い出の地に立ってみた。

 あの日、14年前の1981年5月、春にもかかわらず凍てつくような寒風の吹く中、アイルランド共和軍(IRA)の拠点といわれたアンダサンズタウン通りに面する住宅街を訪れたのだ。街は騒然としていた。下院選に獄中から立候補して当選したボビー・サンズ議員が、囚人ではなく捕虜としての待遇を求めて抗議のハンストを66日間続けて衰弱死し、カトリック教徒が暴動を起こしたのだ。
私がIRAの若者にインタビューしていたとき、彼らの仲間が英軍治安軍のジープ、装甲車に火炎瓶や硫酸爆弾を投げていた。

 突然だれかが「伏せろ」と叫んだ。周りの人々が一斉に地に伏せた。英軍が火炎瓶を投げている若者に向かって威嚇射撃を始めたのだ。

 弾丸が飛んで、壁に当たってはねた。これが噂のゴム弾か、と思いいたった。普通の弾丸だと体の中を貫通して死者が出る。そうなれば、国内外から政府批判が高まる。弾丸の先を硬質ゴムにすれば、体に刺さって重傷を負わすが、死者は極端に少なくなる。暴徒を殺さず、暴動を抑えるために開発された“悪魔の弾丸”である。

 ゴム弾は、まるでパチンコ玉のように壁から壁に音を立てて飛び交い、地に落ちた。どこから弾が飛んで来るか分からないから恐怖が膨れ上がる。突然、尻に激痛が走った。「撃たれた」と思った瞬間、「人間、簡単に死ぬものだ」とのあきらめが頭を駆け抜けた。だが痛み以外、体はピンピンしている。寒さの中で、なんと持病の痔が急に頭をもたげたのだった。

 今回の北アイルランド和平草案は、英国議会の与野党の賛意を得て、和平への歴史的文書になると期待されている。だが、プロテスタント諸政党は、南北アイルランドの統一につながる、と猛反発している。歴史は、プロテスタントの合意なくしていかなる政治解決もなかったことを示している。彼らがあくまで反対し続ければ、和平の道は閉ざされる。

 いまベルファストでは、春を告げるクロッカスの花が頭をもたげ始めた。和平の望みもクロッカスの花のように膨らみつつあるが、解決が直ちに来るわけではない。北アイルランドの痛みはまだまだ続くのだ。わが持病そっくりである――――。

◇               ◇   

 何度か死を覚悟した特派員時代だったが、今回の氷河行では比較的冷静だった。危険があるとはいえ、多くのスキーヤーが滑っているところである。「年寄りの冷や水だな」「なんでその歳になってそんな馬鹿なことをするのか」と軽蔑と疑惑の視線を送られて、テニス仲間の友人と日本を出発した。モンブランの見えるシャモニーで出会ったガイドと2日間周辺スキー場で滑り、これなら氷河スキーに行ってもよい、とのゴー・サインをもらった。スキー技術が劣っていれば、危険すぎるから氷河行には参加できない、とあらかじめ言われていたからである。

 心配だったのは、高山病。10年前肺がんの疑いあり、と片肺の四分の一を切除したことが高山病を誘発しないか、とやや不安だった。ヒマラヤに行った友人から“食べる酸素”が高山病予防によい、と聞いてスポーツ店で買い込んだ。酸素を体内に取り込むことができるというその錠剤を食べたせいか、富士山より高いエギュー・デュ・ミディに上ってもめまいがしない。ここでビーコン(無線発信機)を体につけさせられた。雪崩に巻き込まれたとき、ビーコンの発する電波が雪の下に埋められたスキーヤーのありかを探す頼りになる。見ればガイドはスコップをリュックにつけている。さらにハーネスという岩登り用の網のような器具をつけさせられた。急斜面を下りるとき、ガイドとザイルで結ぶため、クレバスに落ちたときに救出するため、である。装備が厳重であるのは、その必要性があるからだ。

 ガイドとザイルをつなぎ、急斜面を歩いて下りた後、スキーをつけて氷河を下る。ガイドが警告した。「一つ、停止するときは私の前にけっして出ないように。一つ、私の滑るシュプールの幅4,5メートル以上でないこと。一つ、なにかあったらストップと大声をあげること」。クレバスがあちこちあって墜落する危険があるからだ。

  右側に標高4800メートルのモンブランが雪をかぶり神々しく輝いている。目の前には何百メートルも荒々しく切り立った針峰群。そして見渡すかぎり純白の大雪原。神々の技極まれり、との感がある。句が浮かんだ。

  モンブラン針峰従え蒼空(そら)に立つ
  シュプールを雪の氷河にいま刻む

 
ガイドの指さす岩壁の間に小さな点が三つ。この雪山で岩登りする命知らずの者たちだ。聞けばアルプス山群で毎年40-50人が命を落とすという。

  氷河を覆う雪の上にはいくつものスキーの跡がある。危険と隣り合わせとはいえ、晴れた日は、モンブラン、グランド・ジョラスなどアルプスを形作る名山が迫ってくるだけにスキーヤーには人気スポットなのだ。ザッ、ザッー、新雪にスキーを滑らすと反発する力を感じる。ふわっとした雪ではなく、氷点下30度にもなる氷河の上では、雪が固まってしまうのだ。

  ガイドが停止を命じて言った。「ここから数百メートルは決して止まらないように。私の後をついてきて下さい」。蒼く光る左方の氷河からときどき氷片が落ちてくる。体に当たったら一発だ。三浦敬三氏がテレビで語ったのは、ここのことだったか。「急斜面で孫の豪太が背を見せて乗るよう促したので、つい誘いに乗ってしまったのです。それが残念で仕方がありません」。最も急で危険な個所を自分の足で滑らなかったのは不覚だった、と何度も悔しがっていた。氷塊が落ちてくるから危険といわれても、スキーヤーはどうしようもない。道路にある「落石注意」とあるのと同じではないか。そういえば誰かが言っていた。「落石注意とはそこでお弁当を広げてはいけない、ということだ」。

  危険地帯を過ぎてから雪原の上でリュックから取り出した弁当を頬ばる。両側にごつごつした氷河の塊が林立している。地上に露出した氷河はなんと蒼く透きとっていることか。その妖しい美しい輝きに心を奪われていると同行した友人が言った。「あのシュプールは、クレバスに落ちそうで間一髪助かった跡だ」。上から見ればまったく分からず、下から見上げてはじめて分かる、そんなクレバスがここかしこにあった。

  雪上の昼食後、斜滑降と直滑降を交ぜて一気に終点のゴンドラ駅へ。だがかつてはゴンドラ駅まで滑っていけたのに、氷河が溶けた結果、駅は現在の氷河の100メートルも上になってしまった。だから氷河から駅まで鉄の階段がつくられ、スキーヤーは、疲れた体を叱咤激励しながらスキーを担いで上る羽目に落ちいっている。地球温暖化の深刻さを、こんなところで体感させられるとは。

  これで標高3800メートルから20キロ、標高差2800メートルの氷河を滑り下りた。晴れていたこと、シャモニーに30年在住している日本人名ガイド、横山日出現(ひでみ)氏の親切な助けがあって、快適な滑降だった。だが山はしばしば牙をむく。横山氏があたり前のように言った言葉がずしりときた。「新聞に出ていました。昨日スノーボーダーが二人クレバスに落ちて死にましたよ」。

  後日、シャモニーから車で一時間の有名スキー場メジェーブに行った。リフト券売り場で80歳以上は無料と書いてあった。あと10年間がんばって無料のリフト券をもらわねばならぬ。人生に新しい目標ができた。(毎日新聞出身 2010年3月記)
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