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八幡、富士製鉄「世紀の合併」を追う ―難産だった新日鉄の誕生―(渡部 行)2014年4月

1968(昭和43)年4月17日、毎日新聞朝刊1面トップ記事は衝撃的なものだった。それは「八幡・富士鉄合併へ」というもので、八幡製鉄の稲山嘉寛社長、富士製鉄の永野重雄社長が基本的に合意し、国際化時代に即応し、なるべく早い機会に合併を実現したい――など書かれていた。


これをスクープされたマスメディア、特に新聞界のショックはともかく、公正取引委員会は、この合併を「独禁法に違反する」と認めず、両社は「審判で争う」ことになった。


それからの新日鉄が発足するまでの2年間、この世紀の大合併をめぐる激しい取材合戦が続けられた。おそらく空前絶後だろう。


◆関西の記者に抜かれた


この大ニュースは、大阪に出張していた永野富士製鉄社長の車に毎日と日刊工業の記者が同乗取材(ハコ乗り)したことによる。永野社長は「富士、八幡の合併の可能性」を話した。これにびっくりして、在京の記者に連絡、八幡製鉄の稲山社長にも打診し、大スクープが生まれた。確か同日付で日刊工業も1面で報じたが、毎日に圧倒されてしまった。


周知のように、八幡、富士両社は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策の1つである財閥解体に基づき、日本製鉄を2つに分離させられた。それだけに「いつの日か一緒になりたい」という願望があった。


負け惜しみになるかもしれないが、鉄鋼業界を担当していた古参の記者たちは、両社長からその希望を何回も聞かされていた。本気かどうか、それに困難だろうと思い、ゴシップ記事には書いたがニュースにはしなかった。

関西の記者は初めて聞いて、びっくりし、それが大スクープになった。油断大敵と、いまさらながら反省している。それとこの合併は、釜石製鉄所などの老朽設備が多い富士が、八幡と合併して生き残りを図ったとの見方もあった。


◆公取委と激しい審判闘争に


実のところ、この原稿執筆にあたり、新日本製鉄が1981(昭和56)年3月に刊行した社史『炎とともに』を読み返した。八幡、富士そして新日鉄の十年史を3分冊にした超豪華本である。この十年史に合併のいきさつ、公取委との血のにじむような折衝が詳しく書かれている。これはやはり世紀の大型合併であり、また大難産だったことがよくわかる。


合併の方針を取締役会で決めた永野、稲山両社長が4月22日、最初に訪ねたのは中山素平日本興業銀行頭取だった。このあと中山氏は強力に合併を支援する。椎名悦三郎通産相、水田三喜男蔵相にあいさつ、そして山田精一公取委員長を訪問、合併の方針を説明した。5月1日、両社長は共同記者会見し「1969(昭和44)年4月1日を目標に合併する」と正式に発表した。合併業務の担当役員には、八幡が有田通元専務、富士が徳永久次専務が就任した。


この合併には政治、行政、経済、学会などの大半は支持したが、一部の経済学者や労組などからは激しく反対され、論争が展開された。この当時、公取委は独禁法に厳しく忠実だった。国際的に、また国内も大型合併が相次いで、なにも問題が生じない昨今とは大違いだった。


公取委は基本的な方針として、一社による市場専有の上限を30%とみていた。鉄鋼業界全体としてだが、このほか個別の商品のシェアも問題にされた。両社を合わせた個別商品では鉄道用レール、食缶用ブリキ、鋳物用銑鉄、鋼矢板の4品目が80~90%を占め、公取委は独禁法に違反するとの見解だった。


八幡、富士両社は、設備投資の重複投資の回避、技術開発力の強化、国際競争力の強化などを理由とする合併趣旨書を1968(昭和43)年5月22日、公取委に提出した。公取委は翌1969(昭和44)年5月7日、「合併をしないこと」との勧告書を手渡し、同時に東京高裁に合併差し止めの緊急停止命令を申し立てた。


両社は5月16日、公取委に勧告拒否を回答、23日には「審判で争う」との答弁書を提出した。これから約1年半にわたり、公取委との激烈な審判闘争が続けられる。


◆夜討ち朝駆け 各社の取材合戦も熾烈


公取委は内幸町1丁目、現在のみずほ銀行本店が建っている所にあった、石造りの古いビルに入居していた。審判の状況について、公取委は柿沼幸一郎事務局長が記者会見で説明した。八幡、富士の両社も折に触れて記者会見を聞き、会見場はいずれも満員だった。2つの会見場でとりわけ目立ったのは、朝日新聞の名和太郎記者で、内情をよく知っていた。


新聞、テレビなど報道各社は、社旗をたなびかせたハイヤーで取材合戦を展開、いわゆる「夜討ち朝駆け」である。夕方、柿沼局長の会見を原稿にしたあと、千葉の市川に住んでいた柿沼局長宅を訪ね質問する。柿沼家ではみかんを出してくれた。市川から都内に戻り、田園調布のマンションの入り口で、富士の徳永専務の帰宅を待つ。しかし、通産事務次官を務めた徳永さんは夜討ちに慣れていて記者の姿をみると娘さんの所に行ってしまう。


結局、記者たちは中目黒にある八幡の有田邸に向かい、通された応接室で有田さんの帰宅を待った。有田さんの所は、ジョニ赤の水割りと奥様が簡単なおつまみを出してくれた。連日だけに、途中から八幡製鉄の秘書室がウイスキーを差し入れたという。着物姿になった有田さんは記者たちから、公取委の会見の状況を聞きながら、両社の現況を説明してくれた。夜中の12時を過ぎ、引きあげようとしたら、「こんばんは~」と他社の記者が訪ねてきたのには、びっくりした。これが1年半も続いたのである。


八幡、富士両社は鉄道用レールの4品目について、日本鋼管、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所など競争各社にシェアを与えることにより独禁法をクリアした。身を切られる思いだった。公取委はこの排除計画を受け入れ、1969(昭和44)年10月30日、合併を認める同意審決書を両社に手渡した。


これにより翌1970(昭和45)年3月31日、新日本製鉄が発足したのは、前記のとおりだ。新会社の会長に永野重雄、社長に稲山嘉寛の両氏が就任した。


有田さんは過酷な業務の連続で健康を害され、新日鉄の発足を見届けるように死去された。8月6日、青山葬儀所で準社葬があった。私は遺影に「無茶な取材で申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた。救いは有田夫人が身近な人に「最近、記者の皆さんが来なくなって寂しくなった」と、漏らされていることを知った時だった。


◆いまも続く関係者との縁 「鉄の会」は23回目


この世紀の大合併劇を取材、執筆したのは主に通産省記者クラブと重工業記者会(重工クラブ)所属の記者だった。プライベートなことで恐縮だが、老生は重工クラブに21年間も在籍した。この記録が破られることはないだろう。ちなみに、エネルギー記者会には15年いた。


資源素材産業とエネルギー産業は由緒正しく、そこで働く人たちも誠実で大好きだった。この出会いと絆を大切にしたいため、記者仲間と関係業界の人たちと「鉄の会」と「エネルギーの会」を結成した。


「エネルギーの会」は残念ながら中断したが、「鉄の会」は連綿と続き、今年も5月8日、日本記者クラブの10階ホールで、23回目の懇親会を開く。老生は「死ぬまでの世話人」をやらされている。やむを得ないとあきらめているが、あといつまで続くやら――。


「鉄の会」だけでなく、老ジャーナリストとして、現在も記者仲間や関係業界の人たちと親しく交遊を続けている。現役時代は新聞もまだ勢いのある頃だった。なんと幸せな人生と感謝している。


わたなべ・つよし

1931年福島県生まれ 産経新聞編集委員 日本工業新聞編集局第二工業部長 論説委員を歴任 これまで『浮利を追わず』『原発を誘致しよう』など20冊を上梓 現在 経済ジャーナリスト 南相馬市ふるさと大使

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