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独裁者、その最後の時  中米パナマの最高実力者・ノリエガ将軍(千野 境子)2011年5月

2011年、北アフリカのチュニジアでベンアリ大統領が民衆の怒りの前に失脚を余儀なくされた時、その後のムバラク・エジプト大統領の退陣からカダフィ大佐のリビア内戦、さらにはシリアの反政府運動拡大まで、一体どれだけの人がこれを予想しただろうか。


いまや争乱は中東、北アフリカ全域に広がり、強権支配により盤石と思われていた独裁体制は屋台骨から揺さぶられ、終息の兆しはまったく見られない。


2011年が歴史に残る激動の年となることは必至だろう。国際政治の大きな地殻変動の一方、自然界も文字通り大きな地殻変動が発生し、東日本大震災という未曾有の災害に日本が見舞われていることは周知の通りだ。


栄華を誇り、国を思いのままに私物化してきた独裁者が世界各地で軍や民衆により引きずり下ろされ、表舞台から消えて行くのを目の当たりにするいま、思い出される独裁者がいる。中米パナマの最高実力者だったマヌエル・ノリエガ将軍だ。


将軍の手には金のデザイン・リング


ノリエガ将軍は1990年1月、麻薬密輸容疑で米国に身柄を拘束され、最高実力者のままパナマから米国へ移送された。もっとも麻薬容疑は名目で、根底には後述するように米国と将軍との抜き差しならない対立があった。


マイアミ連邦地裁で禁固40年の判決を受けた将軍は、フロリダ州刑務所で服役する。模範受刑者として刑期は大幅に縮小されるもののパナマ帰国は適わず、2010年4月には今度は別の容疑でフランスへと移送され、7年の刑を受け獄中にある。堕ちた独裁者もいまでは76歳。老いは確実に忍び寄り健康状態は優れないとも伝えられる。


その将軍に私がパナマの首都パナマシティーで単独会見をしたのは、1989年11月7日のことだった。会見はそれからわずか1カ月半後の12月20日、米軍の軍事介入により徹底的に破壊されることになる国防軍司令部の二階にある執務室で行われた。


ノリのきいたカーキ色の制服に、背の低さを少しでもカバーするためだろう、ヒールの高い黒のブーツ姿の将軍は精悍そのものに見えた。対米関係は日に日に悪化し、会見1ヶ月前の10月には反ノリエガ派によるクーデター未遂事件も発生、将軍自身の置かれた状況は緊迫の度を相当に高めていたはずだが、外見からはその後の運命を予期させるような様子は一切うかがえなかった。


「きょうは午前5時から働き、このあとまだ仕事が残っているので少し疲れました」と言って、笑みを浮かべながら差し出された思いの外に華奢な女性のような手には、金のデザイン・リングが輝いていた。54歳。バリバリの働き盛りではあった。


うかつにも私自身、米国が軍事介入し、国防軍司令部まで破壊してしまうとは思いもしなかった。そんなことなら司令部をもっと観察しておけばよかったと後になってちょっぴり後悔したものだ。


どんな困難があろうと、やると決めた時はやる。それが米国であることを長年CIA(中央情報局)の協力者だったノリエガ将軍なら熟知していたはずなのに、哀しいかな、最後に判断を誤るのも独裁者の常である。ルーマニアのチャウシェスク大統領しかり、イラクのフセイン大統領しかり。リビアのカダフィ大佐はさて、どうだろうか。


とはいえノリエガ将軍は爆撃に命拾いし、バチカン大使館へ駆け込む。亡命申請は退けられ、進退窮まった将軍は一転して米軍に自主投降し、冒頭に述べたような経過をたどって今日に至っている。


私がノリエガ将軍にインタビューをしたいと思ったのは、ひとえに大国・米国と対峙する将軍への人間的興味からだった。当時、私は外信部で中南米を担当地域の一つにしていたが、同時に中南米から米国を見るということを自分のテーマにしていた。


周知のように中南米は米国の裏庭といわれる。裏庭には裏庭の論理、言い分があるはずだ。それはどんなものなのだろうかと考えたのである。もっとも中南米自身は当然のことながら、自分たちのことを裏庭などと考えない。裏庭の表現自体、米国の発想だろう。


漠然とした人間的興味が具体的に取材へと転じるのは89年7月。忘れもしない、もう一人の独裁者、すでに失脚していたフィリピンのフェルディナンド・マルコス元大統領にインタビューをするべくマルコスの滞在先、ハワイのホテルにいて部屋のテレビを見ていると、画面にノリエガ将軍の顔が大写しされたのだった。


ここでちょっと話がそれるが、私は独裁者に関心はあっても別に彼らを好きなわけではない。ハワイへ行ったのは、元マニラ特派員としてマルコス独裁20年を自分なりに総括してみたいと思ったからだった。


テレビのニュースはノリエガ将軍率いる国防軍と米国との対立を伝えていた。当時、米国の対パナマ経済制裁はすでに1年を過ぎ、5月のパナマ大統領選挙を将軍が一方的に無効にするなどして、米国とパナマの関係は悪化の一途をたどっていた。あばただらけの悪人風の将軍に、しかし私は「一体どれほどの悪人なのか。会えたら面白いかもしれない」と会見取材を思いついたのだった。


正門・駐日パナマ大使館をノック


東京に戻って早速、駐日パナマ大使館を通じてインタビューを申し込み、それから実際に会見の承諾を得るまでの道のりは、思ったほど難しくなかった。


パナマ及びノリエガ将軍の周辺には、日本人、外国人を問わず有名無名を問わず、多くのロビイストや関係者がいたが、私は彼らを敬して遠ざけた。”裏庭”に行くのに”裏口”からなんて洒落にもならない。正門を叩いて開かなければ、それまでのことだ。


幸い門は開いたのである。経済制裁を対米心理戦争の一環ととらえていた将軍側は、恐らく米国への対抗上からも、自分たちが主張する機会を求めていたのではないだろうか。駐日パナマ大使は満面の笑みを浮かべて私のパナマ行を喜んでくれた。


もっとも容易だったのはそこまでだ。女性写真部員とのコンビで日本を発ち、パナマに入国してみると、見通しが甘かったことはすぐに分かった。国防軍司令部から派遣されてきたアテンド兼連絡役の軍人は肝心の会見に関してはまるで頼りにならず、パナマ運河や市内見学で時間は過ぎていった。


「そんなにインタビューを急ぐことはないですよ。パナマには見るところが一杯あるから楽しんで下さい」などと言われ、最初のうちこそ初めての国だけにうれしかったが、次第に観光なんてしている場合ではないと気もそぞろになった。


しかし市内見学やアテンド役の彼と話をしていると、取材が簡単にできるような状況ではないこともよく分かるのだった。


経済制裁の影は濃く、1カ月前のクーデター未遂事件に象徴されるように、首都には何とも言えぬ刹那的な空気が漂っていた。ビルは空き室だらけ、商店は売り急ぎのバーゲンセール、公共機関のバスは日本なら廃車同然のポンコツといった具合で、「将軍がつぶれるか、パナマがつぶれるか。このままであればいずれパナマ経済は崩壊するでしょう」とある日本人駐在員は解説した。


日本を出発する前、私はパナマ滞在を1週間と決めていた。1週間もあればいくら何でも将軍に会えるだろうと考えたからだ。逆にいえば、それ以上日数をかけても会えないものは会えない。先方にもその日程は伝えた。東京での感触は到着2、3日後には実現しそうな雰囲気で、時間が余ったらどうしようかなんて思ったのが、腹立たしくも懐かしくもあるようなパナマシティーの日々だった。


たまりかねて私は東京の駐日パナマ大使に電話をかけると、思わず「約束が違うではないか」と詰め寄ってしまった。


「マダム、私はベストを尽くしました。後はもう本国次第です。幸運を祈ります」


マダムの一言が妙に心に響き、自分のマダムらしからぬ口調に私は少し恥じ入った。


11月7日、出国フライトの時刻も過ぎた


こうしてまだ見ぬノリエガ将軍は私たちに近づいたかと思えば遠ざかり、毎日は無為に過ぎていった。しかしなぜか会見の時が確実に近づいている予感もまたあった。そしてついに私がこれでダメならもう最後と決めたその日である11月7日、朝8時にホテルに会見のゴーサインが届いた。


アテンド役の彼もうれしそうで、一緒に国防軍司令部に向かった。ついに待ちぼうけにも終わりが来たと、はや仕事はあらかた終わったような気分になったが、実はそれはまだ終わりの始まりに過ぎなかったのである。


司令部に入ったのに会見は始まらない。理由を知らされることなく部屋を移動すること4回、最後となる執務室に通されたた時は時計はすでに午後5時を回っていた。予約していた出国のフライトはとうに時間を過ぎていた。その頃には苛立つ気持ちも消え、私はこうなったら会見を終えるまでは司令部をたとえ出ろといわれても、絶対に出まいと心の中で固く決めていた。


記者とは待つことなり。そう覚悟もしてきたが、こんなにも長い不安な一日を経験したのは初めてだった。当のノリエガ将軍が執務室の奥のドアからついに姿を現したのは、午後6時になろうとしていたのではないかと思う。


麻薬ビジネス、マネー・ロンダリング、CIAへの協力など裏ビジネスに深く関わってきたとされるノリエガ将軍。しかし目の前の将軍は、前述のように華奢な体躯の軍人で、威圧するような迫力はどこにもなく、一問一答をしながら受けた印象は「非常に用心深い人だな」というものだった。


米国批判はもちろんするが言葉を選ぶ。決して激高などしない。それでいて心を開いているようには見えない。本音は覗かせない。例えば「貴方は米政府と対立はしているが、米国の世論には何か言いたいことがあるのではないか」と誘い水をしても、返って来る返事は次のようなものだった。


「パナマに関する情報は米政府によってコントロールされている。エスタブリッシュメント(米の支配体制)がパナマに対してやろうとしていることは心理戦争であり、あたかもパナマに戦争が起きているような情報を何度も流すことによってパナマ国民を洗脳している。しかしパナマと米国はパナマ運河のパートナーではないか」


私たちのアテンド役を務めた軍人も心理戦争という言葉をよく使った。そして心理戦争の先には米国の攻撃があり、それは米国がパナマ運河を欲しいからだというのが、彼の説明だった。ノリエガ体制による、それこそ洗脳のせいもあるだろうが、こうした見方は当時のパナマではかなり広がっていたように思う。ノリエガ将軍はさすがにそれほど露骨ではなく、「米国の侵略に対してはパナマの地理上の位置が答えを出すだろう」と、遠回しにパナマ運河の存在を指摘しただけだった。


将軍が比較的リラックスした表情を見せたのは、日本について語った時だった。


最初にパナマ運河の最大の利用国が日本であるという経済上の重要性を指摘すると、「日本とパナマの友好関係はいまに始まったものではなく、第二次大戦以前からたくさんの日本人移民がパナマに住みついた。その中には理髪や漁業、真珠の養殖に従事した人たちもいた」と日本のこともなかなかよく知っていた。また2000年にパナマに返還されるパナマ運河に関連し、第二パナマ運河に対する日本の協力に期待を寄せた。


「それではそろそろ最後に」とノリエガ将軍が切り出した時、私は初めから「これが最後の質問」と決めていた質問をした。


-パナマの将来と将軍の今後をどのように考えますか?


本当は「将軍は退任するつもりはないのですか」と質問をしたかったのだが、これは事前に「ネガティブで刺激的すぎる」とクレームがついてしまった。けれどパナマ問題がひとえにノリエガ将軍の進退如何にかかってきていた以上、質問を取り下げるわけにはいかない。結局、パナマ側との話し合いの末に、前述のように〃前向き〃で抽象的な質問に落ち着いたのだった。


ノリエガ将軍の答えは次のようなものだった。


「国はその持てる労働能力と地理的条件に左右される。ちょうど日本が敗戦の廃墟の中から見事によみがえったように、パナマもたとえ政府は変わろうともその位置は変わらず、国家は永遠である。私個人の今後については神のみぞ知るということにしていただく」


国家は永遠。自身の運命は神のみぞ知る。この二つの言葉が強く印象に残った。


それにしても今になってみると、悔いが残る。なぜ会見の最後に「ネガティブで刺激的すぎる」質問を敢えて将軍にぶつけなかったのだろうか。いや、もっと踏み込んで、「退陣した方がパナマと将軍自身のためではないでしょうか」と聞いても良かった。


もちろん約束違反だが、会見も最後の最後だ。まさか将軍も私たちを取って食いなんかしまい。聞いてみる価値はあった。将軍は何と答えただろう。自ら退任することは米国の圧力に屈することになると、突っぱねただろうか。


ノリエガ将軍はブッシュ大統領(当時)がCIA長官時代には、共に昼食を囲むような親しい間柄だったといわれる。同じ中米ニカラグアに左派のサンディニスタ政権が誕生すると、その情報を米国に頻繁に送った。サンディニスタ転覆を図った反政府ゲリラ・コントラにも便宜を図ったとされる。ノリエガ将軍が米国にとってなかなかに重宝な存在だったのは確かだろう。


パナマ民族主義の父・オマール・トリホス大統領


米国とノリエガ将軍の蜜月はなぜ終わってしまったのだろうかという私の質問に、パナマのある知識人はこう述べていた。


「結局は米国の意のままにならなくなったからでしょう。残念ながらパナマは米国の私生児なのです。将軍は独自の力をつけすぎたのです」


ノリエガ将軍への人間的興味から始まったパナマ取材は、パナマシティー滞在を終える頃にはパナマの自立、ナショナリズムの問題により関心の比重が移っていった。パナマにとって米国の存在はあまりにも大きい。米国の私生児とは知識人らしい自嘲だ。しかしパナマがナショナリズムを求めてもがいてきたことも確かだった。


パナマ運河こそその象徴であり、さらにはパナマ・ナショナリズムの中核たらんとしたのが、皮肉にもノリエガ将軍が支配した国防軍だった。


太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は1914年に米国により建設され、長年にわたって米国の管理下に置かれた。パナマにありながら運河はパナマ人のものではなかった。そのことがパナマ人のナショナリズムをかきたてた。運河の完成から新運河条約が米国との間に結ばれるまでの60年余り、運河地帯に国旗一本を掲げることをめぐってさえ暴動が繰り返された。


カーター米大統領とともに新運河条約に調印したオマール・トリホス大統領はもともとは国家警備隊司令官(将軍)出身で、「パナマ民族主義の父」と呼ばれる。1981年、飛行機事故で不慮の死を遂げた同大統領の墓碑銘に刻まれた言葉は次のようなものだ。


「私は天国に入りたいとは思わない。私が望むことはただ(パナマ)運河地帯に入ることだ」


ここにパナマ人の思いが凝縮されている。だからであろう、パナマにはトリホス将軍の名前を冠した場所が、空港に始まり公園や建物など至るところにあった。


その国民的英雄とも言えるトリホス将軍に目をかけられ、貧民街出身のメスティーソ(スペイン系とインディオの混血)でありながら、国防軍司令官にしてパナマの最高実力者にまでのし上がったのがノリエガ将軍だった。しかしこの師弟の歩んだ道には天と地ほどの違いがある。ノリエガ将軍の犯した行為はその意味で二重三重にも罪深い。


米軍の軍事行動の後、市内では少なからぬ人々が商店街で略奪をして回った。将軍がバチカン大使館に逃げ込み、米国との帰趨が見えるころには「ノリエガ追放」の声が彭拝として起こった。権力の座にあった時は恐れられた将軍も、堕ちた独裁者となれば国民から捨てられる。


それだけではない。国防軍は司令部建物を破壊されただけでなく、国防軍そのものが解体されてしまった。ノリエガ体制と命運を共にしたのである。米国の後押しで誕生したギジェルモ・エンダラ大統領がその幕を降ろした。


続いてオルテガ大統領、そしてカストロ首相の予定だった


会見の日に話を戻すと、その夜、私たちはホテルでささやかに乾杯し、翌日、次の目的地ニカラグアのマナグアへと向かった。


実はこの取材旅行は3人の独裁者のインタビューを主たる目的にしていた。残るはニカラグアのサンディニスタ政権を率いるダニエル・オルテガ大統領とキューバのフィデル・カストロ国家評議会議長。密かに”カリブの3悪人を訪ねて”と称した。もちろん悪人の表現は米国から見ればの話で、それぞれの自国内では議論は分かれる。


残る2人の後日談を書こう。オルテガ大統領にはノリエガ将軍よりさらに厚い壁が立ちはだかり難航したが、これまた最後の最後で単独会見することができた。オルテガ大統領はしかし約半年後の大統領選挙で敗れ、サンディニスタは野に下った。あっけない終わりだなと思っていたら、中南米の再度の左傾化の波に乗って、先年カムバック、2回目の大統領を務めている。ベネズエラのチャベス政権同様、相変わらず米国とは一線を画しているようだ。イデオロギー優先で経済再建を怠って野に下ったサンディニスタ政権の失敗をあまり学んでいるように見えないオルテガ大統領には、独裁者はいい気なものだなと思う。


牧歌的で素朴で優しい人々がいっぱいだったニカラグア。もう一度訪れてみたいものだが、同時にニカラグアに限らず、独裁者を許してしまう国民の寛大さや社会のゆるい体質といったものも考えざるをえない。


カストロ議長には単独会見は適わなかった。日本出発の前から会見の可能性は残念ながらもっとも低いことが分かっていたので、日程も最後に組んだが、案の定、カストロへの門は固く閉ざされていた。そもそもキューバは、パナマやニカラグアとは国家のあり方、体裁が根本的に違っているようだった。良くも悪くもヒエラルキーがしっかりしていた。社会主義は筋金入りだった。


その後ニューヨーク特派員になって、冷戦そしてソ連崩壊に大きな打撃を受けたキューバを何度か取材した。経済の苦境の中でも、倒れそうで倒れない政権だった。米国の対キューバ制裁が逆に政権と国民の結束力を強めていたのではないかという印象を受けた。米国の”裏庭外交”には敵をわざわざ作り出している側面がある。よく言えば使命感にかられるあまり、荒っぽい。若気の至りなのだろうか。


しかし2011年、カストロにもついに終わりが訪れた。演説大好き人間なのに、演説はもとより言葉一つ発する事なく表舞台を去った。バチスタ独裁政権を倒した20代の青年時代から80代の老齢期まで、長期独裁政権の最後は信じられないほど静かに幕が下りた。


これがカストロの真に望んだ終わり方だったのか、またカストロらしい終わり方だったのかどうかは分からない。


(産経新聞特別記者 2011年5月記)
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