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日本最長の日記(宮武 剛)2009年10月

タイムマシーンに乗った日々
ニュースは「アイウエオ」と我流の定義をしていた。アっと驚く、イゃーすごい、ウっそ!と言いたくなる、エっと絶句、オーと感動である。
 しかし、それだけでは映像メディアには太刀打ちできない。活字メディアは「カキクケコ」を加えたい。解説、記録性、詳しく検証、見解を打ち出し、今後どうなるか、も予測する。

●訃報から始まった残業

非力な記者であった私には「アイウエオ」と「カキクケコ」を両立させた体験は数少ない。ただ、日常の仕事とはかけ離れた分野で、その機会を得たことがある。
 社会部のサブデスク時代、当番日の夕刊で一人の元軍人の訃報に接した。遠藤三郎・元陸軍中将である。関東軍参謀副長や航空兵器総局長を歴任し、戦後は開拓農民へ転じ、そのかたわら日中国交回復に尽力した異色の人物であった。

当日の加藤順一デスクが「あの人の日記はすごい内容らしいよ」とつぶやいた。すぐ動くのが社会部育ちの性なのだろう。二人で埼玉県・狭山市のご自宅を弔問した。ご家族に日記を拝読させてもらえないか、と頼んだところ、「生前から外への持ち出しは厳禁でしたが、書庫で読まれるなら」と許しを得た。

それから1年余の狭山通いが始まった。夕刊番と朝刊番を各2日連続し、明けと休み。その間を縫って通うのは辛かったが、明けと休日返上・寝不足・視力低下の値打ちは十二分にあった。

●11歳から91歳まで80年余

日記は、日露戦争勃発の明治37(1904)年から始まる。

∧八月一日(月)寒暖計八十五度(華氏)晴天、但し午後二時より三時半まで曇り『朝五時三十五分に起き、かおをあらい、めしを食べ、裏の畑にて、かみきり虫を一匹取り、父上に上げ』~∨

この几帳面な記録が延々と昭和59(1984)年10月、91歳の天寿をまっとうする1カ月前まで続くのだ。

近・現代の長大な日記には、永井荷風の「断腸亭日乗」(43年間)や政治学者の矢部貞治日記(45年間)がある。もちろん長さだけでなく歴史的な価値が問われる。

山形県の置賜盆地に生まれた遠藤三郎は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校のすべてを首席で終え、参謀本部作戦課勤務からフランス駐在武官へ、エリート軍人の階段を駆け上がっていく。

「15年戦争」の起爆剤となる「満州事変」時には、真相を探るため参謀本部作戦課員として現地へ派遣され、郷土の先輩でもある関東軍作戦参謀・石原莞爾から極秘文書を手渡された。謀略によって満州の奪取を図る「対満要綱」である。表紙に「用済焼却」とあるが、遠藤は日記と共に大事に保管していた。

日本が火だるまになっていく時代、遠藤は常にその渦中にいた。

関東軍作戦参謀~大本営幕僚~関東軍参謀副長~第三飛行団長~航空兵器総局長官。

日記には、日常の雑事と歴史的な体験が入り混じる。謀略の渦巻く満州国の実相、二・二六事件の反乱軍将校との対話、ノモンハン惨敗の後始末、加藤隼戦闘隊を従えたパレンパン襲撃、内乱のような陸海軍の暗闘、特別攻撃隊編成の経緯~。

著名な将官の言動に加え、無政府主義者の大杉栄らを殺害した甘粕正彦との不思議な付き合い、細菌戦を指揮した軍医正、石井四郎との出会い、終戦工作を探った独創的な経済学者、柴田敬との交流~、特異な人物が走り書きの中によみがえる。

●唯一の抹消部分の真相

恐らくは日本最長の史料である93冊、ざっと1万5千ページ余の日記には、一箇所だけ墨で塗りつぶした記述があった。30歳の陸軍砲兵大尉だった大正12(1923)年、関東大震災の灰燼が漂う9月11日のこと。

『午後、寸暇を得て警備区域を巡視す。●●●●●て問題惹起す ●●●● 夕陽西方(にしかた)に春(うすず)く頃、第三中隊を訪問す』

最初の抹消部分には「王奇天に就」と、添え書きされ(奇は遠藤の誤記)、やはり後年に書いた雑用紙のメモも挟んであった。

デマが飛び交い、罪なき数千人もの朝鮮人、中国人が殺傷された混乱と狂気の中で、遠藤は治安維持の任務に就いた。日記とメモを読み進むと、闇に葬られた「王希天暗殺事件」の真相が浮かび上がる。

王希天は、中国・吉林省生まれ、一高予科から名古屋の第八高等学校に学び、当時は大島町(東京江東区)で中国人労働者の生活支援に取り組んでいた。その活動を陸軍と警察は「反日活動」とみなし、大震災の混乱に乗じ殺害を図ったのだ。

実行犯は遠藤とも親しい中尉で、軍刀を持って切り殺し、死体は逆井橋から中川(江東区・旧中川)に投げ捨てた。旅団長や中隊長と共謀のうえで、山下奉文(ともゆき)少佐(後の大将)や阿部信行少将(後の首相)らも隠蔽工作へ走った。

すでに幾つかの史料や証言で概要は明らかになっていたが、遠藤日記の詳細な記述は決定打と言ってよかった。下手人の中尉についても、フリージャーナリストの田原洋氏が本人から真相を聞き出していたが、改めて所在を突き止め、匿名を条件に日記の記述通りの証言を得た。

中国から見舞い金や食料が続々と寄せられ、医師団も派遣された最中の卑劣極まりない謀殺であった。

●「書けなかった」宿縁

敗戦後、遠藤は埼玉県狭山市で開拓農民となり、軍人と軍隊が国家を滅亡に陥れた前半生を悔い、「軍備亡国」を唱えた。晩年は中国侵略の最前線に立った体験を振り返りながら「日中友好元軍人の会」を結成し、国交回復へ井戸掘り役の一人となる。訪中は5回に及び、毛沢東、周恩来、廖承志らと親交を深めた。

戦後のひもじい時代を知る程度の私にとって、この日記はまるでタイムマシーンであった。関連証言を集め、傍証を固め、夕刊に110回連載し、その後「将軍の遺言」と名づけて単行本にまとめた。

それで仕事を終えたつもりだったのだが、ある日、二木ふみ子さん(元日教組婦人部長)からの連絡で、27歳で非業の死に倒れた王希天には妻子がいたこと、周恩来と親友であったことを知った。二木さんは、王希天の足跡を丹念にたどり、奇しき因縁を独力で発掘された。

周恩来首相と遠藤との会談は時に3時間余にも及んだが、現代史を代表する政治家が、若き日、あの王希天の友であったことを、遠藤は終生知らない。周恩来もまた、遠藤と王との関わりを知る由もなかった。

平成8(1996)年の初秋、王希天の生誕100年にちなみ、中国・長春市に息子の王振圻・医師ら遺族の尽力で「王希天記念館」が開設された。二木ふみ子さん、田原洋さんたちと共に開館式に参列の名誉を得た。

しかし、私は遠藤日記をくまなくみながら、王希天その人の調査を怠った。「書かなかった」のではない。「書けなかった」のだ。

日記自体についても、私よりはるかに先、作家の澤地久枝さんは、やはり遠藤宅へ日参し、重要部分をこつこつ手書きで写しておられる。

歴史を掘り起こし、歴史から学ぶ作業は、何世代にも渡り、それぞれの志を懸けて取り組むほかない。過去へ遡れるタイムマシーンは、未来を切り拓くタイムマシーンでもある、と信じたい。


みやたけ たけし会員 1943年生まれ 68年毎日新聞入社 社会部副部長 科学部長 論説委員 論説副委員長 99年埼玉県立大学教授 07年目白大学教授(社会保障専攻)
著書に『介護保険の再出発』『年金のすべて』『Social Security in Japan』など

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