ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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文革に翻弄された記者交換(福原 亨一)2008年6月

中国政治劇の一端に触れて
1966年11月から1年半、文化大革命初期の北京で、スケールの大きな中国政治劇の一端に触れた。でも私の見聞は文革序幕の一断片にすぎない。

松村謙三・廖承志両氏の合意に基づく日中記者交換の第一陣9社9人は64年9月末に北京入りし、すぐに廖承志との月例朝食会という特典に恵まれ、65年末まで他国記者の羨望の的だった。66年8月、紅衛兵が初めて北京街頭に現れ、文革の先兵として大暴れしたさまを詳報した日本の9記者は同年度ボーン国際記者賞を受賞した。

第一陣のうちただ一人、私の在任中も北京に留まり健筆を振るった日経の鮫島敬治記者(のちの日本記者クラブ理事長)は、私の帰国後にスパイ容疑で1年半拘留される苦難を味わった。畏友・鮫島記者の残した記録の助けを借りて記者交換の時代をしのびたい。

■中国初の核実験

1964年10月16日、東京オリンピックの熱狂に冷水を浴びせるかのように、中国が最初の核実験を行った。北京での活動を始めたばかりの鮫島記者は、実験発表の直前に北京入りした社会党訪中団の成田知巳団長(党書記長)が空港で「一切の核実験に反対する」と談話を発表すると中国側歓迎陣に緊張した空気が流れ、歓迎の辞は述べられなかった、と報じた。(注1)

半月前に米国が「中国の核実験は近い」と予告したので、社会党は先手を打って反対を表明した形。日本政府も中国の発表後すぐ「厳重抗議」の鈴木善幸官房長官談話を発表した。

私は当時、外務省担当の政治部記者だった。国内各界がほぼ一様に反対を表明するなか、外務事務次官がオフレコ懇談で「さすがに中国、男の子だね」と是認するような口ぶり。ベテラン外交官は中国の核保有を当然視するのかと驚いた。  

7カ月後の65年5月、中国は西部地区上空で第2回核実験に成功。鮫島氏は「中国の成功で東アジアでは“核の脅し”は効かなくなり、核戦争の可能性は消えた」との西側外交筋の観測を伝えて来た。
(注2)

インド、パキスタンが核兵器を持ち、北朝鮮の核が各国を振り回している現時点から振り返ると、あの次官発言は(そして鮫島電も)核に対するアジア諸国の感覚が日本と違うことに注意を促したのだと思う。

■警告相次ぎ記者半減

66年秋、私は北京に転勤。着任翌々日の11月3日未明、宿舎の新僑飯店を包むざわめきで目が覚めた。8月に始まった毛主席の紅衛兵接見の第6回に参加する大軍だった。翌4日、上京中の地方紅衛兵は冬の到来前に急ぎ帰郷せよとの布告が出た。

政権中枢での抗争激化を示す壁新聞が街頭に溢れ出た。興味津々の記事を何時間も読み歩き、指導者の情勢説明や地方の動向、乱闘事件の速報などを拾って送稿した。最盛期の67年元日から2月末日まで一日も休まず合計二百本に達した。新米特派員が足で稼いだ単純な記事が紙面で優遇され、海外に転電されたが、幸運は長続きしなかった。

67年2月17日、外交部は日本記者団幹事と毎日・高田富佐雄記者を呼び「高田は記者交換協定の精神に背き、非友好的な報道をした。最近の毎日紙面はしきりにマンガで偉大な毛主席と文革にあくどい攻撃をしかけた」として「厳重な抗議と警告」を伝えた。

6月30日、朝日・野上正記者に「東京駐在の中国記者がさまざまな妨害、制限を受けており、これが続くなら対応措置をとる」と警告。

9月10日、毎日・江頭数馬、産経・柴田穂、西日本・田中光雄の三記者に「警告に背き佐藤内閣の反中国政策に呼応して中国情勢をわい曲して報道した」との理由で国外退去を通告。

10月12日、東京の廖承志事務所は読売のダライラマ招請を批判、関憲三郎記者の北京常駐資格取り消しを通告。

こんなに厳しく制約される記者常駐は無意味だ、との声も聞こえ始めた。歴史的な政治劇を現場で見続けることが先だと私は思い込んでいたが。

67年10月末、一年の滞在期限が切れた私は香港に出て再入国を申請し、北京へ戻った。9人いた日本記者は日経、朝日、NHK、共同の4人に。それでも北京の外国記者団ではソ連の3人(文革前は6人)を上回る最大勢力ではあった。

■鮫島記者逮捕される

廖承志、高碕達之助両氏が62年11月に調印したLT貿易は67年末に期限が切れ、68年2月2日に古井喜実、岡崎嘉平太、田川誠一の三氏が訪中、覚書貿易と記者交換の継続を交渉し、3月6日にようやく妥結。記者交換枠は5人に減らされた。

壁新聞取材が下火になったころ、北京在留4年目で外国記者の最長老格になっていた鮫島氏に誘われ北京空港へしばしば同行した。外国の賓客を出迎える中国当局者の待ち時間が狙いだったが、中国の対日担当者に限らず、対中貿易関連企業の首脳や北京駐在員、英仏はじめ欧州各国の大使館員など、多彩な取材対象を開拓していた彼には効率の良い取材の場だった。なにより日中貿易の実態に通じていた彼との情報交換を望む人は多かった。64年1月にドゴール大統領の決断で国交を樹立、中国と急速によい関係を築いたフランス大使館の商務官、文化担当官、駐在武官などとはとりわけ親しい間柄にみえた。 68年5月、私は任期を終えて帰国。鮫島氏は6月7日にスパイ容疑で人民解放軍北京市公安局軍事管制委員会に逮捕された。69年12月に彼を釈放した時、北京放送は「記者の衣をまとって大量の情報を盗み米日反動派に提供した。鮫島は大量の事実を前に罪を認め、関係当局は寛大に処理し、国外追放を決めた」と発表した。実態は、文革最盛期の軍極左派が北京の警察を握り、活躍が目立つ日本記者をスパイと断罪して権力を誇示、外交担当の周恩来首相を苦しめようとしたが思い通りにはならなかったとみるべきだろう。

■痛恨・未完の回想録

72年9月に日中国交正常化が実現。民間交流の積み重ねで正常化を促す記者交換の役割は終わった。

76年9月毛沢東が死去、10月に四人組が逮捕されて文革は終幕に向かう。77年9月、李先念副首相が人民大会堂で鮫島氏に陳謝、9年ぶりに彼の名誉は回復された。

釈放・帰国後の鮫島氏は日経の要職を歴任しながら、日中関係の交流、評論活動を精力的に続け、大きな業績を残して2004年末、72歳で逝去した。彼は拘留事件の経過を『日本記者クラブ会報』99年3月号に寄稿、その内容は彼の回想録草稿(未完のメモ)とともに2005年発行の追悼集に収録されている。(注3)

回想録の準備に当たって彼は拘留中に自分を取り調べた担当官との対面に執着した。面談を重ねたあと「これで全て納得!これから(回想録に)着手できるよ!」と夫人に語り、本クラブ会報への寄稿で「三十年かけた取材を終える」と表現した。

残念ながら(未完のメモ)はわずか38ページ、連行される彼が支局の看板を振り返る場面で途切れている。彼は自らの逮捕拘留を日中関係と文革の歴史のなかにどう位置づけて得心し、記録しようとしたのだろうか。回想録の未完を惜しみ、嘆かずにいられない。

(注1)鮫島敬治『8億の友人たち 日中国交回復ヘの道』(1971年9月、日本経済新聞社) 14頁
(注2)『追想 鮫島敬治』(2005年12月、同書編纂委員会発行、日経事業出版センター制作)331頁  (注3)『追想 鮫島敬治』114頁~、312頁~


ふくはら・こういち会員 1932年生まれ 55年共同通信入社 東亜部 政治部 北京支局長(66~68、75~78)編集委員 論説委員長 ㈱共同通信社情報企画局長 92年退社 岩手大学教授  78年度日本新聞協会賞「近代化進める中国に関する報道」で辺見秀逸(共同・北京支局員)と共同受賞
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