コミュニケーション - 会員エッセー

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2005年08月 : 生田崖崩れ実験メモから

予測できない自然現象
浅井 恒雄

梅雨が過ぎれば台風の季節。地震・津波は海外でも猛威をふるっているが、毎年定期的に襲ってくる台風による水害や崖崩れは、自然現象とはいえ防げないものか──。

この時期になると思い出すのが、1971年(昭和46)11月11日、記者やカメラマンを含む15人の貴い命が失われた川崎市生田の崖崩れ実験である。たまたま、いまはない科学技術庁の「科学技術記者クラブ」幹事だった私は、詳細な記録を残している。

                                                  □ ■ 

当時、年平均約200カ所の崖崩れで被害を受けた京浜地区のローム台地を対象に、地質調査と空中写真による地形解析とによって、ローム台地縁辺部の崖崩れ履歴解析を行うことになった。川崎市生田に試験地を設定してより精密な地形、地質構造等の調査、降雨時等の実験斜面の挙動観測等を行い、崖崩れの発生機構を解明、防災対策の基礎資料を得ようとした。

4カ年計画の「ローム台地における崖崩れに関する総合研究」が、科学技術庁、通産省、自治省、建設省の協力で行われ、4年目のこの年に最終的な現場実験をやってみようというので、実験計画が綿密に立てられていた。防災上の貴重なデータを得る狙いだったが、不幸にも事故が起こってしまったのだ。

あの時、科学技術庁(すべて当時の名称)の国立防災科学技術センターと通産省地質調査所、建設省土木研究所、消防庁消防研究所など関係省庁の研究所が分担を決め、いわゆる総合研究をやった。当時の資料では、第1次実験が11月4日から3日間の予備実験。11月9日から4日間が第2次実験の崩壊実験、10日から本格的に水をまき始めた。計画では散水量の計算をし、12日午前に崩壊する予定だったが、実際には前日の11日午後3時34分に崩壊した。

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私はクラブ幹事として、事件を知らせる電話を真っ先に受けた。「崖崩れで数人がケガをした」というのが第一報だったが、その日は、ちょうど午後からテクノロジー・アセスメントの発表、原子力の保障措置問題のレクチャーがあり、各社、その原稿を書いていた。事故時に科学技術記者クラブのメンバーは現場に行っておらず、難を逃れた。

私自身は、科学技術庁の広報体制問題について梅沢次官とやり合い、クラブに戻ったのが午後3時過ぎ。バスが用意されており、「これから皆で行こうよ」と言ってた時に第一報が入り、それから死傷者の数が増え出してクラブは大騒ぎになった。

当日の実験作業は午前7時に開始され、トータル雨量で320~380㍉を散水。12日にはさらに60㍉以上、直前までに500㍉近い雨量で予定通りの散水となる計画だった。事故は予想外の時に起きる。

11日、地表の歪み計6台に2㍉の歪みが出始めた。約1時間前には歪み5㌢となり警報が出る。3時15分頂上の観察小屋から笛。3時33分に警笛が鳴る。34分に崩壊した。崩壊予想地点60㍍には防護柵が高さ1㍍、直径15㌢の松、杉丸太で80㌢間隔、35㍍にわたって埋めてある。崖崩れの量と速度は予想を超えた。

立入禁止の危険地帯に入っていた人もいる。研究者は持ち場からの逃げ道を決めていた。防災研の大石室長は「笛は崩れる合図、逃げられるだろう」と判断していた。死傷者のほとんどが警笛の意味も知らない見学者で、実験担当の研究者は事故にあっていない。

海洋や宇宙取材で一緒だった読売の記者も亡くなった。最後にNHKのカメラマンの遺体が発見されたのが12日の午前零時半過ぎ。まずカメラが見つかり、「彼のカメラだからこの辺だろう」と、その辺を探して発見した。マスコミから死傷者が出たこともあって、報道はエスカレート。「甘い実験計画」と報道されたこともあり、平泉渉科学技術庁長官は更迭。以後、崖崩れ実験は中止された。

科学技術の実験失敗で、責任者の処分はその後の研究開発を停滞させる。研究が中止されると研究者や資料も離散する。米国ではロケット開発やスペースシャトルの「チャレンジャー号」爆発、2年前の「コロンビア号」事故でも責任者は更迭されていない。日本では責任者が頭を下げ、退任すれば事が収まるようだ。それにつけても自然災害や科学技術からみの事故では、マスコミ関係者が巻き込まれる可能性は高い。

ずさんだった東海村のウラン濃縮加工工場(JCO)で起きた臨界事故は、事故後の放射線が危険だった。ある新聞社はその後、原子力事故に備えた取材マニュアルを作成している。普賢岳でも記者が巻き込まれた。私も各国の原子力取材で、かなり放射線を浴びた記録がある。

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思い出せば、火攻め水攻めというような天災に遭ったことがある。

義経で有名な平泉と合併が話題になっている岩手県一関地方に起きた有史来の大水害について記述を残したい。

標高1628㍍の栗駒山に源を発し、一関市街を貫流する磐井川は、若鮎踊る清流として広く知られていた。予想もしない第1回目の大水害が発生したのは、戦後間もない1947年(昭和22)9月16日午後5時ごろ。前夜から早朝にかけ栗駒山の山間部一帯に、1時間数百㍉という集中豪雨が数時間にも及んで吹き荒れた。

集中豪雨についてのラジオ放送はあったものの、一関地方は雨が時折パラつく程度の天候であった。集中豪雨について気配りをする人は皆無であった。「宿命の水害の地」とはいっても北上川からの逆流による比較的静かな水害しか経験がない。

ところが夕闇迫る頃、磐井川の水位が大波を打ちながら見る間に増えだした。上流から流れてきた大木が上の橋、磐井橋の橋脚に次々に引っかかるので、あたかもダムが水勢を堰き止める形となって水量も加速的に増えはじめた。戦前作られた名ばかりの堤防を突き破り、濁流が市街地にどっと浸入したのはそれから間もなかった。

堤防欠壊で初めて激流の直撃を経験する人々は動転し、なす術を知らず混乱状態に陥った。幸い激流はかなりの被害をもたらしながらも市街地を一気に素通りしたが、今度は同時に増水していた北上川からの逆流水とがぶつかり合い、再び市外地全域が水浸し。2階建ての住人たちは命からがら屋根の上に避難した。北上川と磐井川の増水が重複したので冠水時間も3昼夜近く長引き、多くの人命を奪った。

しかし、その復興計画に着手しないうちに迎えた1年後の48年(昭和23)9月16日、前年をさらに上回る甚大な水害に見舞われた。集中豪雨の状態は前年ほどではなかったのだが、前年の水害の傷跡は深く残っていた。磐井川上流の土質のもろい断層地帯が集中豪雨のため広範囲にわたって地滑りを起こした。

大量の土砂は増水中の磐井川橋脚でダムとなって濁流を堰止めた。たまりにたまった濁流はついにダムを突き破り、大量の土砂もろとも大きな山津浪となって磐井川流域を駆け下ったのである。その上、置き忘れたローソクの火から豪雨の中で火災が発生、ドラム缶に火がついて流れ出し爆発した。水はあれども消火はできず、嵐の風にあおられて火勢は半分水につかった家屋をなめ尽くした。まさに地獄図である。

湾曲部に激突した山津浪は、その反動で前年とは反対側の山目地区を襲った。大量の土砂を含む山津浪の破壊力は想像以上にものすごい。川辺りに面して建っていた花川戸の遊郭街をはじめ周辺の家屋など数百軒を根こそぎ破壊して流失、判明した死者だけでも368人、その他負傷者数知れず、数千人の被災者をだす大惨事となったのである。まさに悪夢というほか適切な表現の方法はあるまい。

報道通信も完全に麻痺した一週間だった。自然災害の恐ろしさは各地で今も続いている。

あさい・つねお 岩手県出身 70歳1959年産経新聞入社 71年日本経済新聞社へ 科学技術部編集委員日本科学技術ジャーナリスト会議事務局長・理事 日本原子力研究所上席嘱託 医療情報システム開発センター評議員 燃料電池開発情報センター監事など 著書に『繊維とくらし、科学技術時代の読み方』(PHP社刊)『新聞によく出るハイテク重要語』(日経刊)など

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