コミュニケーション - 会員エッセー

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2003年10月 : 昭和の厳窟王・吉田石松事件

アリバイ証人を探して
中村 登紀夫

昭和35年(1960年)6月。名古屋には何百万人が住むのか、 その中から一つの顔を探さなければならない。その顔は、48年前の殺人事件の夜、 名古屋市郊外千種町の花村静江宅で塀の外をうろついていた男・吉田石松を見ていた。 堀場梯助という名前だけで、年齢も住所も生死すら不明だ。

八月に始まるラジオの報道番組『目撃者の記録・俺は無罪だ』は、昭和の巌窟王と呼ばれた吉田石松事件の再審を取り上げることになっていた。その取材だった。

○…堀場の発見が条件だ

吉田石松の名を知る人はもう少ないだろう。大正2年8月13日の夜、千種町の路上で殺人事件があり、翌日、聞き込みで警察は犯人二人を逮捕。二人は犯行を認めたが、主犯は吉田石松だと供述を変えた。石松の逮捕は翌15日昼。彼はアリバイを主張、一貫して犯行を否認したが、一審は死刑。翌年、大審院で無期懲役となった。

石松32歳。つづく23年を刑務所で過ごし、仮出獄したのは昭和十年だった。戦前と戦後計4回の再審請求はすべて棄却された。80歳になった石松は、最後の願いを日本弁護士連合会人権擁護委員会に訴えた。

石松が語るアリバイはこうだ。《犯行時刻、静江を訪ねたが先客がいた。塀の外をうろついているとき、知らない人だが先客に顔を見られた》

その先客の一人?堀場梯助?の名は記録にある。だが時は流れていた。主任弁護人で再審を主導した後藤信夫弁護士も《原審記録はすべて焼失し、関係者もほとんど死亡もしくは行方不明》という裁判の困難さを覚悟していた(後藤信夫著『昭和の巌窟王』)。
人権委が発見した花村静江の録音を聞いて、番組第一回はこれだと決めた。だが上司は「この堀場を見つけなきゃダメだ。ゴールデンアワーの新番組だよ」。

○…ほったらかしだった証人たち

取材は、私と山林アナウンサーのコンビだったが、取材開始時、石松関係で消息が分かっていたのは雇い主の加藤半十郎一人だ。話には内容はなかったが、彼は古い硝子工場のことを口にした。石松の仲間が分かるかもしれない。そこで、早川良一の名を聞いた。
早川は石松の逮捕現場にいた。刑事が来た時、石松は「何しに行かなならんナという顔しとった」。逮捕まで石松の様子は普通だったと記憶している。「堀場梯助を知りませんか」「知らん。だが、夜遊びなら渡辺惣市だ」。

自転車屋の隠居となっていた渡辺は昔の記憶をたどった。「石松が工場に来て、遊びに連れだした。その時、娘を紹介したワ、確か、しずといった」。その夜はしずの家を教えただけで帰った。事件の数日前である。石松と静江を結ぶ糸が確認された。隠居からさらに、仲間の伊藤庄次郎を紹介された。

伊藤の証言は貴重だった。石松に、逮捕の前日か前々日「しずの家に遊びに行こう」と誘われた。だが「用があって断った」。石松も「その夜、友人を誘ったが断られ、一人で行った」と語っている。両者の話は完全に一致する。その日が「八月何日だったか思い出しませんか」。無理な問いに彼は首を振った。「時の流れ」という越えることのできない壁だった。

驚いたことに、三人とも事件について聞かれたのははじめてだという。この裁判は、何を調べて、一人の人間を裁いたのか。

○…一つの顔が、いた

残るは堀場梯助だ。堀場が存命で名古屋にいると仮定する。花村は今の北区にいた。北区をあたろう。区役所で「大正2年の戸籍簿が残ってますか」と聞く。「戦災で焼けた」の返事で糸は切れる。事情を話すと埃まみれの戸籍簿の山を運んできてくれた。分厚い綴りが机に積まれた。ページをめくり、堀場の姓名を全部捜す。見かねて職員も手伝ってくれた。大正2年のたぶん20代の堀場はいないか。 堀場、 堀場……。何時間たったろう。 堀場貞助が、あった。ただ、?貞助?で?梯助?ではない。でも、こんなに条件がそろった?テイスケ?が他にいるとは思えない。

教えられた雑貨屋には年格好のじいさんが座っていた…「おじいさん、昔のこと聞きたいんだけど…」。群衆の中のたった一つの顔が、そこにいた。「その夜は大野という仁と一緒でナ、外へ出てどんなヤツやというぐらいのもんや、そんな男がおったぐらいのことやナ」。

大正2年8月13日夜9時、花村静江宅の周辺で繰り広げられ、幻のように思えたドラマが、現実の情景となって浮かんできた。

○…翁の余生に幸多からんことを

日弁連は《中村登紀夫指示の伊藤庄次郎、堀場貞助、早川良一らを尋問…それが再審請求の力強い支えになったのである》(後藤・前掲書)。
36年4月11日、名古屋高裁。裁判長の声が響く。「本件の再審を開始する」。総立ちの法廷の中央に、ただ独り座りつづける石松の目に涙があふれ、やがて笑顔になった。夜、祝賀会でビールを注いだ。ふるえる手でうまそうに飲んでいた。

昭和38年2月28日午前10時。判決。《被告人は無罪》。
小林裁判長は判決の最後をこう結んだ。 《被告人、否、ここでは被告人というに忍びず、 吉田翁と呼ぼう。 あらゆる迫害にたえ自己の無実を叫び続けてきたその不撓不屈の精神力に対して、 深甚なる敬意を表しつつ、 翁の余生に幸多からんことを祈念する》。 小林さんは裁判官である前に人間だった。

面映ゆいが、後藤さんの本から引用する《石松にとって何よりの救いは報道関係者の支援だった。七人の新聞記者以外に、ラジオ東京の中村登紀夫と山林正明の名を忘れてはならない》。石松と一緒の3年間に何本の番組を放送しただろう。ラジオ東京は一切の制約なく、すべてを任せてくれた。

吉田石松が幸多き日々を送ったのは、わずか9カ月だった。
12月1日、石松死去。巨星墜つ、なんて、ぢいさんらしくないナと思いながらも、石松こそ再審裁判の?戦前?に終止符を打った男だという思いはある。後藤さんと一緒に仏前に座った。祭壇のぢいさんはにこやかに笑っていた。

●吉田石松事件 大正2年愛知郡千種町(現名古屋市)で繭小売業者が殺害された。先に殺害容疑で逮捕された男二人の供述によって、吉田も逮捕される。第一審は吉田は「死刑」、二人は「無期懲役」。一貫して無実を訴える吉田は獄中から二度再審請求、大臣請願五回。仮出所(昭和10)後、出獄していた二人を探しだし「詫び状」をとり三度目の再審請求をするがこれも棄却。その後、日弁連が特別委員会を組織、衆院法務委員会も動きだし、昭和37年第五次請求に対してついに再審開始となる。翌年「無罪」確定。再審史上初の冤罪がぬぐわれた事件で、半世紀にわたり無罪を主張し続けた吉田は「昭和の厳窟王」と呼ばれた。

●なかむら・ときお会員 1931年生まれ 54年ラジオ東京(現TBS)入社社会部 報道部で録音構成担当 テレビニュース部副部長 「テレポート・TBS6」プロデューサー 番組宣伝部長などを務め 91年退社

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