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頬白き若者たちの戦い もう一つの60年安保(加藤 順一)2010年8月

◆騒然としたキャンパス
 振り返ってみれば人生は偶然の積み重ねのようなものだ。「安保闘争」という日本の政治と社会を揺さぶった現象を、60年安保では学生として、また70年安保では新聞記者として最前列の「かぶりつき」で見てきた。今の草食系若者には想像もできない「学生運動」と、それに恐れもなく勇敢に参加してきた若者たち。「暴力」と「権力」の具体的な「姿」を体験した。ある時、忽然として後ろに居るはずの大衆が消え去り、「7社共同宣言」というマスメディアの裏切りを突き付けられて、多くの若者達に「心」の痛みだけを残す結果で終わった。 

 1958年に早稲田大学に入学した。キャンパスはもはや騒然としていた。全学連は分裂して第1次ブント(共産主義者同盟)がこの年に結成され、全学連の主導権はブントが握り学内でデモを繰り返していた。「スト決行、国会へ!」という看板がところかまわずに立てかけてあり、ブントと共産党系の民青系学生があちこちで衝突していた。「何かを選ばなければならない」という焦りが若者達にあった。緊張した学内の空気は「ノンポリ」も含めて、多くの学生たちが肌で感じていた60年安保闘争へ熱っぽい序章だった。
 
 ある日、授業が終わった時に小柄な学生が教壇に飛び出し「君たちは今の大学をどう思っているのか。もはや高校生ではない。ブントの思うままにして良いのか。雄弁会は闘う」と演説をし始めた。「何を闘うのか」-言っていることはさっぱり分からなかったが、教室に飛び込んできたこの学生は、結局、民青系の学生にこづきまわされ「右翼は出て行け」と怒鳴られていた。しかし彼は少しも引きさがらない。




  私たちの英語のクラスは民青が牛耳っていた。大学内で暴れまわるブントには、その勇敢さに好感がもてた。これまでに見たこともない勇敢さだった。その騒ぎの渦に巻き込まれたが、結局その学生をかばって、文字通り暴力で民青系の学生達に教室から叩き出された。私はそれでも「闘う」と言う彼と、そのバックにある雄弁会に興味を持った。
 追い出されるその学生と一緒に近くの喫茶店で話した。尾崎士郎の「人生劇場」の舞台となった雄弁会に興味を示して、結局二人で雄弁会の部室に行った。雄弁会は安保闘争にはほとんど動きを見せていなかった。と言うよりも「大衆行動」に参加せずに一つ先に行った政治活動をしていた。直接政党に参加している「おませ」な学生たちの不思議な集団だった。主流は自民党青年部で、社会党員、民社党員などがたむろしていた。
         
◆「君、共産主義は嫌いか」
 薄汚れたジャケットを羽織ったいかにも左翼と見える髯の濃い学生が「君、共産主義をどう思うのか」という実に大雑把な質問をしてきた。つい昨日まで高校生だった私は「資本論」などは読んでいないし、マルクスもレーニンはるかかなたの存在だった。
 「共産党は嫌いです」と言うと「よろしい」と、その日のうちに入会を許された。後から考えると2年先輩には後に総理となる森喜朗氏がいて雄弁会の幹事長を狙っていた。同期生には小渕恵三氏(後に総理)、1年上には玉沢徳一郎氏(後に防衛庁長官)がいた。私の入会を許可した左翼男は「建設者同盟」を名乗りはしたが同盟員は3、4人しかいなかった。「建設者同盟」は戦前に浅沼稲次郎氏らが結成した革新団体だった。大学では有名な「軍研事件」で、大学にいた配属将校の訓示に「勲章から血が流れているぞ」と野次り最後まで軍人と闘ったグループの名残だった。
  まもなく新人の歓迎会があった。「東洋会」というOB会が我々を迎えてくれた。昨日まで生白い政治論争を半ば楽しんでいた我々の前に、松村謙三氏が悠然と現れ、浅沼稲次郎氏、高津正道氏、戸叶武氏、堤康二郎氏などが並んだ。海部俊樹氏などはまだ新人議員で隅の方にいて目立たなかった。 
  「これは大変なところに来た」という思いがした。もはや安保闘争で「岸を倒せ」などと叫びながら学内を騒ぎまわる学生がうるさく感じていたころでもあった。松村謙三氏は高齢ではあったが「自由にやれ。自由を失ってはならない」と訥々と語った。

◆「沖縄」こそ安保の原点
 私にとって60年安保闘争は「沖縄奪還闘争」にダブってくる。当時、革新勢力は「沖縄」にはほとんど目を向けてはいなかった。もちろん沖縄は米軍の占領下で「琉球列島米国民政府」があり、その権力は米軍の「高等弁務官」が押さえていた。雄弁会はこの沖縄に目を向けた。ともかくも沖縄に行こうという機運がたちまちまきおこり、当時沖縄で起こっていた「島ぐるみ闘争」をこの目で見たい衝動が皆にあった。
 ベトナム戦争の初期の段階で米軍は沖縄でそのための基地を拡大していた。本土と隔絶された政治状況の中で島民は「日の丸」を掲げて米兵の銃剣の、前に立っていた。58年春。我々は「雄弁会遊説」と称して、沖縄にわたった。国内は安保闘争のヤマ場を迎えていたが、「新安保条約」は究極のところ極東の軍事バランスを沖縄を中心に保ち、冷戦構造の中で日米の強固な同盟を維持しようとしていたのだった。
 今から振り返れば「新安条約」の核心はやはり沖縄の米軍だったのだ。安保闘争の原点は沖縄だという流れがいつの間にか、我々の中に出来ていた。沖縄では「日の丸」を掲げた基地拡張阻止運動が展開されていて、社会党の高津正道氏はこの動きに賛同して「沖縄で本当の愛国心を見てこい」と言い、現地でそれを見た私たちは、基地反対運動の先頭に立った「日の丸」に心を動かされていた。沖縄への渡航は米軍の許可が必要だった。特殊なパスポートを米軍から受けて、鹿児島から船で渡った。鹿児島の宿舎で南日本新聞のインタビューを受けた。当然のことながら「返還を求める」と熱っぽく語った。それが翌日の新聞に掲載された。
  船が沖縄に近づいたころ大学本部から大浜信泉総長の名前で長い電報が入った。大浜総長は沖縄出身で我々の沖縄遊説を陰で応援してくれていた。電報は「諸君の言動に米軍が注目している。沖縄稲門会の先輩の指導に従え」と言う緊張したものだった。那覇港に着くと稲門会の先輩達が校旗と日の丸を持って迎えに来てくれていた。 
  翌日、先輩に連れられて米軍の高等弁務官に挨拶に行った。星条旗が翻る白いビルが印象的であった。そのまま米兵に連れられて行ったのが那覇市内から少し外れた将校クラブだった。盛大な歓迎を米軍に受け、彼らのスケジュールを渡されてしまった。嘉手納基地、コザ(現在の沖縄市)などを見学し極めて親切なもてなしだったが、嘉手納基地内では「MP」に囲まれカメラからフイルムを抜き取られた。

◆「民族派学生」と言われて
 この沖縄遊説は先輩たちの募金で賄った。それと同時に外務省の外郭団体である「南方同胞援護会」からは幾ばくかの金が渡された。金には困らなかった。どちらかと言えば60年安保闘争の中で「安保賛成」ではないが、全学連という「大衆運動」にすべてを任せてしまう運動には批判的であった。雄弁会は伝統的には既存の政治団体には属さない者たちの集まりだったが、キャンパスの緊迫化に押されそれぞれ既成政党に繋がりを持とうとしていた。共産党系だけはいなかったような記憶がある。思想的な評価はともかく、国会突入をめざすブントの学生には「彼らは勇敢だ」」「本当の戦いはブントを見習え」とまで言う者もいた。我々の行く先は全学連のデモではなく、国会の議員会館か、それぞれの支持する政党本部だった。国会を取り巻くデモ隊を国会の中から見ていた。渾然とした雄弁会の動きは結局学内では右派と見なされていた。そうした学生の集まりに、不思議に金が集まった。先をたどって行けば「内閣機密費」が流れ込んでいたのかもしれないが今となっても誰も口をつぐんでいる。何時の時代でも歴史が動く時には何処からともなく資金が集まるものらしい。後に全学連の唐牛健太郎委員長に、右翼の田中清玄氏から金が流れていたと暴露されたがそうした金は命がけの戦いを挑む若者たちに流れ込んでいた。
 沖縄から帰ってくるとそうした世に言う「民族派」的学生にさまざまなところから支援の手が伸びてきた。「健青会」の運動に加わる者もいた。「健青会」は、後に北方領土返還運動に力を発揮する安保推進派の団体だった。指導者は元中野学校出身の末次一郎氏だった。末次氏は戦後日本が片づけなければならない問題に、沖縄と北方領土があるという考えだった。活動資金はやはり内閣機密費だったのではないかと思われる。
 そこから入る資金で我々は新宿御苑の近くに一戸建ての二階家を借りた。「学生自治研究会」と名乗って、密かに民青、ブントの行動を探る活動をし始めた。沖縄の日の丸を掲げた反基地運動を目の前で見てきた我々は、沖縄の復帰後の姿を想像し、琉球大学内に「東京沖縄学生協議会」を結成、全学連の反主流派・民青の浸透を防ぐ運動を始めた。
  我々の活動は決して「安保賛成」の右翼的なものではなかったが、誤解も受けた。例えば「安保体制維持」を主張する学生も当然いた。彼らは、幾つかの大学の体育会系学生を動員して討論も行った。いずれも「健青会」に繋がる「学生自治研究会」がリードする集会だったことが我々をますます「右派」学生集団と決めつけることになってしまった。
 沖縄を取り返すには東アジアに強固な安全保障体制を構築しなければならないという我々のようなグループは「反安保闘争」のなかでは安保賛成派の「民族派」と決めつけられて無視されていった。「日本の真の独立と日米同盟の強化」が「新安保反対闘争」と矛盾するものではないことを常に言い続けてが、そのたびに、あの勇敢なブントにまさに暴力的に叩き出された。民青は我々が教室に入ることを許さなかった。それも「暴力的」にだった。
 ブントを中心にした安保闘争の激しさは「議論」さえ封じ込める激しさだった。後に「日学同」と言う右派行動的なグループも出現し、特に早大では民青と衝突した。早大2号館封鎖騒動では、バリケードを作って学生を入れない民青を排除するために我々は決死隊を組織、戸塚公園に角材を持って30名ほどが集結したこともあった。緊張で身体が震えたことを覚えている。結局、途中の文学部前で民青派と大乱闘を繰り広げ粉砕された。この「日学同」の流れが後に三島由紀夫の「楯の会」の主流になって行った。
 もう一つの流れは「亜細亜友の会」という一見政治色のない「友好団体」のようなグループが近かずいてきた。指導者は大山量士氏。実はこの大山氏は仮名で本名は佐々木武雄と言い、終戦の8月15日に横浜の警備隊を率いて首相官邸を襲撃した予備役大尉だった。玉音放送を阻止するのが目的で、学生隊を指導して、官邸に機関銃を撃ち込み、鈴木首相私邸を襲撃炎上させた過激派だった。その佐々木大尉がなぜ大山と名を変えて60年安保に登場したのかは不思議だったが、彼はベトナム、タイ、カンボジア、ラオス、フィリピン、韓国などの留学生を集めて自動車数台で日本一周をする活動をしていた。何を目指していたのかは判然とはしなかったが、その周囲には右派学生が集まり、かつての「八紘一宇」ではないが「新しいアジア」を唱え、その意味では日米安保の推進派だった。少しでも安保推進派を膨らませようと、その団体に協力して何人かの学生がアジア留学生とともに北海道を一周した。
 誤解を恐れずに言うならば華々しい大衆動員とは別に「もう一つの安保闘争があった」ことも忘れては困ると言いたい。札幌から仙台、山形のルートでは私とあの小渕恵三氏の二人がポンコツ寸前のフォードを交代で運転して留学生たちを案内した思い出もある。
  当時の世情は「安保賛成」などと言う者は全く軽蔑され学内では歯牙にもかけられない存在だった。推進派の「提灯行列」も試みたが、マスメディアはまるで「笑い話」のような記事しか書かなかった。
            
◆「何か起こるぞ」と情報
 あの6月15日。雄弁会の旗を持ち出そうとするブント系の学生を部室に閉じ込め、数人と「偵察」に出かけた。13日に官邸突入の行動があり、何が起きても不思議ではない雰囲気が国会周辺には満ちていた。「今日は何かあるぞ」と言う情報が、実は民青ルートで流れてきていた。我々は覚悟を決めて国会に出かけた。
  永田町から参議院入り口に向かう坂道で「維新行動隊」と言う右翼の一団を見つけた。周辺は学生、市民、労働組合のデモであふれとても全体を把握することはできない状況だった。午後5時ごろ、その「維新行動隊」が角材を振り回して市民のデモに殴りかかっていった。同時に大型トラックが猛スピードで突っ込んできたのだが、警察官は国会の内側にいて何もせずたたずんでいた状況だった。
  右派と言われた私たちは結局何もできずに混乱の中でただ走り回っていただけだった。その「維新行動隊」は指導者は中野区に根拠を置く「護国塾」の一団で、その中には東洋大学生約50人がふくまれていたと後で聞いたが、我々は全く知らない行動だった。その騒ぎとほぼ同じころ右翼突入のあった参議院の反対側で「新しい事態が起きている」と言う情報を聞いた。
 衆議院南通用門からブントが突入するという情報だった。今考えるとブントの学生は実に勇敢だった。手拭いで覆面をした数人が太いロープを持ってきた。門はすでに壊され、警察の車両が数台バリケード代わりに並べてあったが、そのロープを実に手際よく使って「ヨイショ、ヨイショ」とトラックを引きだしてしまった。警察はただ黙って隊列を作っているだけだった。

 南通用門

  小雨が降ってきた記憶がある。突破された南通用門を入ると右側に警察の装甲車が一台藤棚の下で止まっていた。細いのぞき窓から中を覗くと何か動くものが見えた。警察官らしかった。「引きずり出せ」と言う叫びが起きていたが、我々は「警官には恨みはないはずだ」とそうした学生とつかみ合いをした。藤棚の上に登り見渡すと国会正面入り口広場は突入した学生であふれていた。左側の一角にヘルメットをかぶった警官が今にもデモ隊に突進してくるような態勢で構えていた。一瞬静寂があたりを支配した。危険を感じて藤棚をおり、道路を挟んだ反対側の地下鉄入口に向かった瞬間、警官隊がデモ隊に襲いかかった。警棒を振りまわす激しさで学生たちは一瞬のうちに国会内から叩き出された。この時の1回目の衝突で東大女子学生・樺美智子さんが死亡したのだろうと思う。警棒が人の頭を打ちすえる音が「バチ、バチ」と聞こえ、何度も路上にたたきつけられた。
  逃げるほかなかった。どちらに逃げても警官が警棒をかざして突進してきた。正門に戻り内幸町へ警視庁の脇を通り走った。気がついた時には有楽町の日劇の前に居た。何処も警官であふれていた。我々「右派」呼ばれていた学生の「安保闘争」もこの日で終わった。 ブントの崩壊で学内は急速に静かになった。池田内閣の登場、所得倍増政策と高度成長のうねりの中で学生達の運動は力を失っていた。その契機はやはり「七社共同宣言」に象徴されるマスメディアの変節だった。大衆と権力の間にクサビを撃ち込んだのもマスメディアであった。「メディア」の内側に入ろうと決心したのもこのころだったと思う。

◆沈静化したキャンパス
  我々の最後の運動は来日したロバート・ケネディ米司法長官に「沖縄返還」の直訴をすることだった。早大で講演するチャンスをとらえて詰問するつもりだった。
 大隈講堂にロバート・ケネディが現れると我々は素早く壇上に上がり英文の「返還要求」文書を読み上げた。騒然とした中でロバート・ケネディは「あの島では我が国の多くの若者も血を流した」と言って取り合わなかった。会場は混乱の極に達した。左派系の学生たちも壇上に上がった。学生同士の乱闘も起きた。其の時に突然「都の西北」を歌う一団が現れた。会場は「都の西北」であふれ、騒ぎは収まってしまった。衰退をしてきた学生運動の象徴のような出来事だった。
  そのころ私はすでに毎日新聞入社が決まっていた。卒業して配属先は長野県の松本支局だった。静かな町で政治からは全く離れたニュースを追いかけていた。あまりにも平穏な生活に、つい先ごろまでの「安保闘争」が夢のようだった。キューバ危機の時に「戦争が起きる」と支局で騒ぎ支局長から一喝を食らったことしか覚えていない。やがて、東京に帰り、一番いやだった警察担当、それも選りによって「警備・公安」担当になって、しばらくして再び「70年安保闘争」の渦に巻き込まれたのは何かの因縁だったのか。
 第2次ブントが生まれ、学生運動は四分五裂。第2次ブントからは「赤軍派」が誕生。70年安保は火炎瓶から爆弾へ。新宿騒乱、安田講堂事件、よど号事件、大菩薩事件、そのどの事件にも取材にかかわった。最後があさま山荘事件だった。その間に沖縄は返還されて核兵器が撤去されたと報道されていた。60年安保闘争の時嘉手納基地で見た「メースB」中距離弾道弾(核装備)は何処に行ったのか。密約はあったに違いない。安保闘争を最前列の「かじりつき」で見ていた記者生活は、私の中に何を残したのか。いささか感じることが多いこのごろである。ただ今でも思い出すのは、60年安保闘争で国会突入を叫び、顔色一つ変えず、警棒を構えた警官の集団の中に無言で飛び込んで行った若者達の姿である。
 その勇気を長い記者生活で持ち続けたかどうか。顔白むばかりである。                                                                     
                               (元毎日新聞記者・1938年生まれ 2010年8月記)
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