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シアヌーク映画の夢と現実(秋山 民雄)2009年7月

 インターネットで見つけたカンボジアのシアヌーク前国王個人の公式サイトには殿下が監督、主演した映画を紹介しているコーナーがある。そのなかに40年たっても記憶に残っているタイトルがあった。シアヌーク殿下が旧日本軍将校役を演じる「ボコールのバラ」と、試写会で涙のラストシーンが思わぬ笑いを誘った「クレピュスキュール(たそがれ)」である。「たそがれ」の方は苦い思い出とも結びついている。
 
  映画の製作はどちらも1969年。翌年のシアヌーク追放クーデターで戦争が始まり、さらにはポル・ポト派による大虐殺で苦しんだこの国が平和だった最後の年であり、殿下が映画を作った最後の年でもある。

  隣国ベトナムで激戦が続く一方で、「ポストベトナム」をめぐる動きが始まっていた。中立主義外交は行き詰まり、国内では左派を追放したためにシアヌーク政治に批判的な右派の勢力が強くなっていた。

  そんな内外の情勢をよそにシアヌーク殿下は映画作りを楽しみ、プノンペン国際映画祭(68,69年の2回で立ち消えになった)を開催したりしていた。活躍の場を狭められて、映画以外にやることがなかったというのが実情だったらしい。

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  「ボコールのバラ」を撮影していると聞いて、ボコール平原に出かけて行った。撮影現場を探しているところへ突然、軍服姿の殿下が姿を見せた。

  旧日本軍の軍服にしてはどこかおかしいような気がしたが、殿下は「この衣装は似合うかな」とにこやかだった。撮影現場にはジープ型の車があり、バンパーに「森部隊」と漢字で書かれていた。よく見ると中国の簡体字だった。

  この映画はカンボジアに進駐した日本軍将校と「ボコールのバラ」と呼ばれる現地の美しい女性(演じるのはもちろんシアヌーク夫人のモニクさんである)の愛の物語である。

  シアヌーク殿下は1941年に18歳で王位に就いた。日米開戦の年だが、日本軍がフランス領インドシナ南部に進駐した年でもある。即位式の場に日本軍がいる写真を見た記憶がある。フランス植民地軍を追い払った日本軍に若い殿下は強い印象を受けただろう。その殿下がこの時期に日本の将校を主人公にした映画を製作した動機は何だったのだろうか。日本に何かを期待していたのではないか、といまでも気になるときがある。

  それというのも、映画以外にも動きがあったからである。日本の若者をこの国に集団入植させるという構想をひそかに日本側に打診したのである。日本人を中核にして農村を立て直し、それを基礎に国力を高め、共産主義ベトナムに対抗するという狙いだったとされている。打診を受けた日本側は具体的に対応を考えるような内容ではないとの判断だった。その反応を見た殿下の方もすぐに話を引っ込めたという。結局、どこまで本気だったのかわからないまま、いつものシアヌーク流だと受け取られて、相手にされずに終わったようだ。

  日本はその後の1990年代には和平会議の東京開催、PKO活動への陸上自衛隊派遣など、カンボジアに対して積極的に関与する方針をとった。だがこの当時はそんな時代ではなかった。国際情勢も違うし、仮に現実味のある構想を提案されたとしても、残念ながら前向きに対応できる状況ではなかっただろう。

  1992年に現地で陸上自衛隊を取材した時の雑談で、派遣期間終了後もカンボジアに残って、親しくなった女性と理髪店を営むという隊員がいることを聞いた。その時にこの話を思い出したのだが、すべての雰囲気がすっかり変わっていたので、古い話を持ち出す気にはならなかった。

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  「たそがれ」の方は王宮での試写会に招かれ、それまでに入ったことのない趣味のよい調度の部屋で、この国にしては華やかな雰囲気のなかで見た。

  こういう場合はそれなりの服装で行かなければならないのがシアヌーク時代のカンボジアだった。映画なら室内なので問題はないのだが、屋外になると熱帯の太陽の下で背広にネクタイという服装は苦行だった。それにクメール語で始まり、フランス語、英語に切り替わっていく演説(全体がわかるのは本人だけだったかもしれない)を聴かされるのだから、肉体的、精神的忍耐力を試されているようなものだった。

  試写会では演説もなかった。その代わり、印象的な現実の場面を目撃することになった。

  ストーリーはすっかり忘れてしまったが、最後のシーンは海に沈む夕日を眺めながら主人公が追憶にふけり、涙を流す場面である。ところが場内が静まりかえるはずのこの場面で、笑い声が起こった。笑ったのは閣僚や有力政治家、王族など上流階級のカンボジア人だった。失笑というようなものではなく、遠慮のない笑いだった。

  外国人もいる前で国家元首に対して失礼ではないかと驚いたが、正直なところ笑うのも無理はなかった。小柄で小太り、童顔の殿下がいくら思い入れたっぷりに悲しそうな顔をしても、全くさまにならないのである。殿下の方を見ると、こちらは照れたような苦笑いのような表情だった。

  それにしても国民の間で人気の高い殿下に対する態度としては、異様な情景に感じられた。古い伝統が残っていて、殿下の前では有力者でも卑屈にも見えるような姿勢をとることが多かったので、なおさらそう感じたのかもしれない。

  この場面のことはいろいろな人と話をした。もともと大らかな社会であり、互いに親密な関係なのだから笑いたいときは笑うのは当たり前だと言う人もいたが、殿下の権威が失墜している証拠だと言う人もいた。

  その後で現実にクーデターが起きたのだから、殿下の威信低下が思わぬ場面で露呈したと考えるのが正しかったのだろう。そういえば、笑った人たちのなかには、クーデターの首謀者ロン・ノル将軍やシリク・マタク殿下もいたはずである。「たそがれ」というタイトル自体がシアヌーク時代の終わりが近いことを予感しているからではないか、という陰口もささやかれていた。

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 この時点でクーデターの予兆を感じ取っていれば自慢できるのだが、実際にやったことはその逆になってしまった。恥ずかしいことに、クーデターの2カ月前に殿下が外遊に出発したとき、「これで政争は当面休戦の見通し」という情勢報告を本社に送っていたのだ。記事ではないので誤報とはいわれなかったが、実質は誤報のようなものである。いま考えても身の縮む思いだ。

  当時の私にはクーデターの可能性は考えられなかった。シアヌーク政治には多くの問題があったのは事実だが、殿下なしではこの国は収拾のつかない大混乱に陥ることは確実だった。

  クーデター後の20年ほどの間に起こったことはまさにその大混乱だったと思う。だがシアヌーク殿下は独特の政治感覚でこの時期を生き抜き、最初の即位から半世紀以上を経て王位に返り咲いた。いまは高齢で病気療養中の身だが、国民の人気はなお絶大のようである。(元共同通信 2009年7月記)
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