2016年12月06日 14:00 〜 15:00 10階ホール
大島賢三 元国連大使 「国連と日本人」⑮

会見メモ

日本の国連加盟60周年に合わせたシリーズも最終回。日本のプレゼンスをどう高めるか。「いいポジションをとることだ。例えば人道担当事務次長を英国から取り返す。安保理やPKOと関係する仕事ができる」。事務次長と国連大使の2つの経験から提言した。

 

司会 土生修一 日本記者クラブ専務理事


会見リポート

中と外で体験した「はるかなる国連」

池田 伸壹 (朝日新聞社オピニオン編集部(元ニューヨーク特派員))

人道問題担当の国連事務次長として2年以上活躍し、その1年数カ月後には日本の国連大使に就任した。安全保障理事会改革や北朝鮮ミサイル発射と核実験への対応、安保理議長として事務総長の選出も経験。日本の外交官としてきわめて珍しい、国連本部36階にオフィスを構えていた幹部であり、日本の国連外交のトップでもある。まさに「中と外」の両面からの体験をもとに国連について持論を展開した。

 

大島さんが大使として赴任時、ちょうど筆者もニューヨークで国連取材を担当していたが、国連職員や各国の国連担当記者の間では、すでに知名度の高かった大島さんの赴任が話題になっていた。「今度はケンゾーが日本の常駐代表大使なのか?」と日本からの特派員は何度も聞かれたのが事実だ。赴任後、小脇に書類入れを挟んで歩く大島さんを、各国の大使や国連幹部、記者が「ケンゾー」と呼び止めると、国連のラウンジなどに座り込んで笑顔で情報交換をしたり、時には難しい顔で取材に応じたりしていた。

 

記者会見では、国連事務次長としてコフィ・アナン事務総長を支えたこと、アジア人としてアフガン戦争前後の国内避難民対策に特に力を入れていたこと、広島出身の大島さんらしく、チェルノブイリの問題にも深く関わっていたことなどを説明。質疑応答でも当時の様子を率直に答えた。明石康さん以来2人目の日本出身の人道担当の国連事務次長として、政治局とPKO局のトップである事務次長と3人で、週に1回は会合を持って、重要事項について話し合いを続けていたという。国連の幹部として、どの部署に日本人を送り込むのか。戦略的に考える必要性があると指摘した。

 

国連大使時代の経験としては、安保理改革について多くを語った。日本国内で「常任理事国入り」と呼ばれていた日本外交史上に残る大キャンペーンだ。G4として「ドイツ、インド、ブラジル」と一緒に、安保理常任理事国の拡大を目指した活動については歴史的経緯から説き起こした。

 

大島さんは当時から「針の穴にラクダを通す」ほどの難しさと言っていた、安保理拡大に必要な国連憲章改正の手続き(全加盟国の3分の2以上の賛成が必要)と、現在の安保理常任理事国が事実上、憲章改正にも拒否権を持っていることなどを説明。2004年から05年の実際の活動では、常任理事国は本音では現状維持を望み、中でも中国が日本の安保理常任理事国入りに反対する攻勢をかけていたと説明。それだけでなく日本、ドイツ、インド、ブラジルそれぞれに常任理事国入りを反対する国が存在していたと述べた。また、アフリカ諸国が独自のこだわりをもった要求を続け、問題を難しくしたとも語った。

 

安保理改革の難しさを熟知する大島さんだけに、日本が国連と国際社会にどう貢献できるかという現実的な処方箋(せん)やアイデアをいくつも示したほか、日本人が国連で活躍するために日本国内の教育、とくに大学での教育改革を要望した。

 

安保理常任理事国入りに心血を注いでいた当時、大島さんは英国で第1次世界大戦時に歌われた『はるかなティペラリー』(It's a Long Way to Tipperary)の替え歌を作って、多難な安保理常任理事国入りへの思いを披露したことがあった。安保理改革だけでなく、国連の将来と日本について、大島さんが深く考え続けていることを感じさせる記者会見だった。


ゲスト / Guest

  • 大島賢三 / Kenzo Oshima

    日本 / Japan

    元国連大使 / Former Japanese Ambassador to the United Nations

研究テーマ:国連と日本人

研究会回数:15

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