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ジャーナリズムにおける真のコンプライアンス(奥山俊宏)2018年3月

スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』は、英語の原題が『The Post』となっていることから分かるように、ワシントン・ポストという新聞社が主人公だ。同社のキャサリン・グラハム社主、ベン・ブラッドリー編集主幹といった人たちが、メリル・ストリープ、トム・ハンクスらによって演じられ、とびっきり格好よく描かれている。

 

この映画を観て、様々なことを感じた。

 

その一つは、何が新聞社にとっての本当のコンプライアンスなのか、ということだ。

 

ブラッドリー編集主幹は、政府からの要求に決して屈しない。1971年6月12日に開かれるニクソン大統領の娘の結婚式を取材する記者を代えてほしい、という小さな要求も断る。ジャーナリズムの教科書に出てくるような真っ当な対応だ。しかし、そのとき、ワシントン・ポスト社の経営は大きく変わろうとしていた。

 

グラハム家の手を離れた現在のワシントン・ポスト社屋=2018年4月、ワシントンDCで(筆者提供)

 

1971年6月15日、同社は株式をニューヨーク証券取引所に上場する。それまではグラハム氏の一族に所有される家族経営だったのが、この日から一変する。一般の投資家に会社の所有権を開放したのだ。適法な業務運営の下で、株主に配当し、株価を上昇させることが経営者の責務となる。

 

そこでは不可避的に、ジャーナリズムの原則と資本の論理が衝突することになる。いま風に言えば、コンプライアンスの相克である。家族経営ではなく、広く社会に散在する一般の株主、そして、潜在株主を擁する証券市場、つまり、ウォール街の期待・要請に従った会社経営を求める「コンプライアンス(法令遵守)」と、会社法上のシェアホルダーだけでなく、もっと広いステークホルダー、現在の読者はもちろん未来の読者や社会の期待・要請にも応える本当のコンプライアンス(「規範」遵守)の衝突である。

 

ライバル紙、ニューヨーク・タイムズがトップ・シークレット(最高機密)に指定された国防総省の内部文書を入手し、それに基づく記事の連載を始めたとき、ワシントン・ポストの編集者たちは悔しがる。ところが、ニューヨーク・タイムズの連載は、政府の申し立てと連邦地方裁判所の命令によって1971年6月15日までの3回で中断される。ニューヨーク・タイムズは裁判所に従ったのだ。17日、元国防総省職員、ダニエル・エルズバーグ博士はワシントン・ポストのベン・バグディキアン記者に問題の文書の一部を提供する。ブラッドリー編集主幹は翌18日の朝刊でそれを記事にするべく、作業に猛進する。

 

違法とされる恐れがあるのに、記事を出すのか、という疑問が弁護士らから提起される。しかし、グラハム社主は結論を下す。

 

Let’s go. We’ll publish.(やりましょう。私たちは記事を出します。)

 

しかし、それでも議論はやまない。ニューヨーク・タイムズと同じ情報源から得られた文書に基づく報道なのだとすれば、裁判所の差し止め命令を公然と無視したことになるのではないか。

 

グラハム社主は改めて言う。

 

My decision stands, and I’m going to bed.(私の決断は変わりません。私は寝ます。)

 

狭い意味の法令遵守ではなく、グラハム社主は、ジャーナリズムの原則に従った本当の意味のコンプライアンス経営をこのとき選択した、といえる。裁判所によって違法と判断される恐れが相当程度あるとしても、それでも記事を出すことが、ここでは本当のコンプライアンスである。ウォール街の要請に従った判断ではなく、取材・報道の現場の判断こそが、読者を含む広いステークホルダーの期待・要請に従ったものであることに、グラハム社主は思い至ったのだろう。

 

紙にタイプされた原稿がデスクに渡る。それにペンで直しが書き込まれる。それに基づいて活字が並べられて紙面が組み上げられていく。輪転機が轟音をとどろかせながら、印刷を始める。その振動が編集局に伝わってくる。新聞を積み込んだトラックが社屋を出発する。こうした工程が丹念に映し出され、思わず、ほろりとさせられる。

 

私が記者としてこれを見たときにどうしても気になるのは、ワシントン・ポストの取材班は、文書が真正であることをどのように確認し、文書の内容が真実であることをどのように裏付けたのか、という疑問である。ニューヨーク・タイムズが何カ月も分析と取材に時間をかけたというのに、ワシントン・ポストは1日もかけていない。文書が本物であること、文書の内容が真実であることを頭から信じているように見える。そんなことで責任ある報道と言えるのかという疑問は、映画の中でも、ワシントン・ポストの弁護士によって提起されている。が、明快な答えは示されていない。

 

私がここで思い起こすのは、原田眞人監督の映画『クライマーズ・ハイ』である。群馬県の地方新聞社の社内で、史上最大の航空機事故をめぐって原稿を出すか出さないか、熾烈な抗争が繰り広げられ、ぎりぎりの判断を迫られる様子を活写した名作である。主人公のデスクは、裏付けが十分ではないと判断し、事故の原因に関する特ダネの出稿を見送ってしまう。結果、他の全国紙に抜かれる。

 

編集上の判断として、どれが正しいのか、私は正直、迷う。読者ら社会の期待・要請に従った判断、すなわち、コンプライアンスとは何か、について、ここでは一義の解があるわけではない、と思う。私が担当デスクならば、ワシントン・ポストとは異なり、文書入手当日の出稿は見送って、最低限1日はかけて、ロバート・マクナマラ元国防長官ら当事者への取材の努力を尽くそうとするだろう。また、北関東の新聞社のデスクとは異なり、表現を弱めたうえで事故原因の原稿を何はともあれ紙面に出すだろう。

 

原稿を出すか出さないかの判断は裏付けの程度だけで決まるものではない。公益性やニュース性の大小、訴訟リスクの大小、原稿の表現の強弱など様々な変数の多元方程式によって導かれる解に負う。それに加えて、報道の対象をめぐっての社会の空気やその流れ、新聞社を取り巻く世の中の雰囲気にも影響される。時代の状況が許せば、思い切った報道もできるだろうし、その逆もあり得る。だから、『ペンタゴン・ペーパーズ』や『クライマーズ・ハイ』に見られるような出稿をめぐるせめぎ合いは日々、新聞社内では繰り広げられている。そのあたりは、新聞社外の多くの人たちに、もっと広く、もっと赤裸々に知られたほうが、新聞社も含めた社会全体の利益になるのではないかと感じる。

 

映画『ペンタゴン・ペーパーズ』は、クライマックスである1971年6月17日からきっかり1年後の72年6月17日、ワシントンDCにあるウォーターゲートビルで不法侵入犯が現行犯逮捕されるシーンで終わる。そこから先は、同様にワシントン・ポストを主人公にした1976年の映画『大統領の陰謀』(アカデミー賞に8部門でノミネートされ、4部門で受賞)に詳しい。

 

作品の出来としては、『ペンタゴン・ペーパーズ』(2部門でアカデミー賞にノミネートされるも受賞は逸する)は、同じスピルバーグ監督の近作『ブリッジ・オブ・スパイ』にかなわないかもしれない。冷戦下の米ソ間のスパイ交換をお膳立てした企業法務弁護士をトム・ハンクス主演で描き、2016年のアカデミー賞で6部門にノミネートされ、助演男優賞に輝いたこの映画もメッセージ性の強い名作だった。しかし、そのメッセージのタイムリーさでは今回の映画『ペンタゴン・ペーパーズ』のほうが際立っている。

 

今、国民に公開されるべき文書をなかったことにしようとしたり、トップが率先して新聞社をあしざまにののしったりする政府がまかり通る時代だから、なおさら、この映画『ペンタゴン・ペーパーズ』は私たちにより大きな感動を与えてくれ、新聞社の使命・役割、すなわち、新聞社にとってのコンプライアンスを思い起こさせてくれる。

 

(おくやま・としひろ 朝日新聞編集委員)

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