ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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皇室記者としての思い出(神田秀一)2004年3月

昭和天皇と記者
●大路池での質問

春の観光シーズンを前に、三宅島の地図が書店から消えた。全島民が避難して3年半。いまだに強い火山性ガスが立ちのぼり、村長選挙も避難先で行われるといった状況だ。

1982年。昭和天皇と香淳皇后は、二人そろって三宅島と八丈島を訪問された。取材のため同行した私は、島の南部にあたる大路池で、天皇の鋭い質問を聞いた。

説明役の人が「ここには、三つほど池があります。ときどき、池の水の色が青や黄や茶色に変わることがあります」と話した。すると昭和天皇は、「なぜ、色が変化するのか」とおたずねになった。
説明者は、「原因はよくわかっていませんが、地中からのマグマの上昇と関係があるという説があります」と答えた。昭和天皇はさらにことばを続け、「火山活動と関係があるなら、重大な危険信号になる。よく、調べるように」とのべられた。

一年後、雄山が噴火した。これより先62年(昭和37年)、三七山が噴煙をあげたときも大路池は、異常を示していたのである。

●皇居に舞いおりたトリ

背の高さ、約60cm。胸が黄色、くちばしが大きく、全体の色は、三色(黄、緑、赤)という南米原産のトリが皇居に舞いおり、保護された。79年12月のことだ。

吹上から昭和天皇は宮内庁庁舎近くまで徒歩でおいでになった。記者団は、陛下とトリの到着を待った。やがて、カゴに入れられた鮮やかな色をした見たこともないトリがカメラの前に立った。

昭和天皇は「どう考えても、海を飛んで日本まで来たとは思えない。ペットとして、どこかで飼われていたにちがいない。記者諸君も持ち主をさがしてほしい」とおっしゃった。

しばらくして、川崎市のよみうりランドから丸の内警察署に連絡があり、飼育係がカゴのカギをかけ忘れたため、逃げ出したものと分かった。陛下は、毎日、侍従を呼んで「持ち主はわかったか」とおたずねになっていたという。

●太平洋海底に隆起する天皇海山

今月で終了するテレビ朝日のニュースステーションで、天気予報などを担当していた92年、海流調査のため、東海大学やアラスカ州立大学の協力を得て望星丸二世(1200トン)に乗船した。

沖縄本島の西方海上で二つのブイを投下、渦をまきながら、太平洋のゴミが集まるハワイ沖まで、ブイがどのように流れるか、調査しようという企画だった。ブイは順調に黒潮に乗って流れ、11月に紀伊半島沖、12月に房総半島沖、93年1月には、北緯39度、東経160度の海上に達した。

その後、原因不明の通信障害が二つのブイに相次いで発生、ブイの行方はわからなくなった。観測用のブイが送信を停止した海域は、北緯37度、東経165度付近で、海底には、1000メートルを越える「天皇海山列」と呼ばれるシーマウントがある。桓武海山、雄略海山、欽明海山などと呼ばれ、命名はアメリカの海洋地質学者、ロバート・ディーツ氏と聞いている。

テレビ朝日から、天皇海山とブイについて報告したところ、地理の専門家や宮内庁、海上保安庁などから問い合わせが相次いだ。

実は、この天皇海山を最初に知っていたのは私でなく、昭和天皇であった。宮内庁侍従室に、53年、アメリカから撮影フィルムが届けられ、昭和天皇が常陸宮さまとごいっしょにごらんになっていた。
 
科学者、昭和天皇は常に、学界最先端の研究、第一人者の業績、今までにない仮説や内外の情報に強い興味を示され、実証的研究をされる方であった。

●カメラマンへの会釈

88年3月、昭和天皇は、香淳皇后といっしょに、静岡県の須崎御用邸へ静養のため、出かけられた。前の年、腸の通過障害をとりのぞくため、手術を受けられた昭和天皇は、手術後、はじめて、外出された。

かなり健康を取り戻されてはいたものの、いつご病気になるかわからない状況にあったため、各社は、万全の取材態勢をとった。いくつかあった取材ポイントの一つに、御用邸と公道が接する場所があって、そこに、10社ほどがカメラを出していた。陛下のお車が外出先から御用邸に入る瞬間を撮影しようと待機していたのだが、夕暮れ近くになっても、お車は現れなかった。

「きょうは撤収か」とだれかが声をあげたとき、金網の向こうから帽子をかぶった昭和天皇がゆっくりカメラの方向に近づいてこられた。うしろには侍従と皇宮護衛官がおともをしていた。

カメラマンに連絡をとるため、現場にいあわせた私は驚いた。陛下は帽子をおとりになり、カメラに向かって会釈をされたのだ。

もっとびっくりしたのはカメラマン。シャッターを切る人は一人もおらず、ただ恐縮して深く頭を下げるだけであった。陛下はそのとき、「皆、ご苦労」とひとことおっしゃって、にっこりお笑いになった。ご自分の健康を気づかって多くの報道関係者が、日夜、取材していることをよくご存知だったのである。

●須崎ご用邸での一コマ

78年12月。宮内記者会は、須崎で、昭和天皇にお目にかかった。私は幹事社を代表して、早朝、御用邸下の三井浜まで降りた。その帰り道、山の上で昭和天皇と偶然お会いした。

「どこへ行ってきたのか。そうか三井浜か。きれいな海岸だったろう。でもこのあたりはヘビやクマが出るから気をつけるように」

カメラマン同様ほとんど口を開くことができず、ただ、敬礼をし、お見送りした。

かんだ・ひでかず会員 1935年生まれ 九州朝日放送を経て 61年NET(現テレビ朝日)入社 編成局・報道局勤務の後 英国放送協会に出向 78年宮内庁担当 95年退社 朝日新聞テレビ夕刊キャスター ニュースステーション気象キャスターなども務め 現在 桜美林大学非常勤講師
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