ベテランジャーナリストによるエッセー、日本記者クラブ主催の取材団報告などを掲載しています。


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朝鮮半島取材40余年(小田川 興)2012年11月

被爆者問題で日韓の溝学ぶ 心痛む北朝鮮の笑わぬ子

2000年6月15日、ソウル・ロッテホテルの特設プレスセンター。時計は午前零時を回ったが、予定された南北首脳の共同宣言の発表は大幅に遅れ、約千人の内外報道陣に焦りが募っていた。その時、平壌直結の大型スクリーンに「宣言合意」の字幕が浮かび、次いで金大中大統領と金正日総書記が笑みを浮かべ、手をつないで会談場から歩み出す姿が映った。熱気こもるセンターに拍手が鳴り響いた。半世紀を超す朝鮮半島の分断に新たな章を画す歴史的な瞬間だった。


その光景を見ながら、筆者は「これでいいんだ」と胸中でつぶやいた。が、その一方で、「惜しいことをしたな」という気持ちを消せなかった。実は、首脳会談の実現は発表前に知った。が、民族分断の傷を癒し、明日を開くのは民族自身であり、周辺国は決して干渉してはならない。まして朝鮮半島を植民地化し、自らの敗戦によってその地に長い分断をもたらした日本の記者として、民族の和解・統一への歩みを阻んではならないという自戒が、世紀の特ダネを目の前にした記者根性を抑えて、この日を迎えたのだった。


筆者は、84年に全斗煥大統領が韓国元首として初の公式訪問をして出された日韓共同声明をスクープしたのだが、思わぬ副作用もあり、その苦い経験もブレーキになった。


それは冷戦時代、在韓被爆者の取材を通じて朝鮮問題に入門した筆者が、新しい覚悟を刻んだ日ともなった。


●忘れ得ぬ掌の温もり


1968年春、朝日新聞の「特派員の目」に岡井輝雄ソウル支局長の韓国人被爆者の実態リポートが載った。それを見た「尼崎市の中学生」から「被爆者のために」とよれよれの五百円札が同封された手紙が駐神戸韓国領事館に届いた。和歌山支局から神戸に転勤したばかりの筆者に、韓国領事と旧知の和歌山県立図書館副館長から一報が入り、それが筆者を朝鮮問題に導いた。夕刊社会面の記事が相次ぐカンパを誘い、筆者は韓国人被爆者の直接取材を決意して秦正流大阪編集局長に直訴。地方記者の海外取材は夢だった当時、秦さんがロシア専門家で外報部出身だったことが幸いしてOKに。


梅雨に入った韓国のソウルから釜山、そして馬山まで、韓国原爆被害者援護協会(現、韓国原爆被害者協会)の幹部の案内で回った。日韓請求権協定で植民地被害は「清算ずみ」とされ、その一方で日本の情報が遮断されていたため、医師も被爆者も原爆後遺症について知らないという、日本とはあまりに異なる状況に愕然とした。韓国政府は朝鮮戦争の犠牲者救済に追われ、植民地被害者に手が回らないという事情もあった。


日韓国交正常化からわずか3年だが、被爆から23年も経って訪れた若造の記者が「いまごろ何のために来たのか」と怒鳴られるのは覚悟の上だった。だが、原爆後遺症と貧困、差別にあえぐ被爆者たちは「どうか早く私たちを助けてくれるよう、日本政府に伝えてほしい」と訴え、私の手を握る被爆者も多かった。その掌の温もりはいまも忘れない。しかしついに、釜山で会った女性被爆者は記者の顔をにらみ、こう吐き出した。「私ら一番憎いのは、天皇ですよ」。韓国で当時、日本の平和憲法への転換は一般には知られず、天皇は依然として最高権力者だった。この一件は日韓の歴史問題の溝を深く学ぶ契機になった。


●大平外相の「幻の特別立法」


そこから在韓被爆者の実態取材にとどまることができず、問題解決への努力を自分に課した。1972年、つてをたどって香川県観音寺市の大平正芳外相(当時)の自宅(大平文庫)を訪れて直訴した。


大平さんはなんと開口一番、「韓国人だけでない。中国人被爆者もいるので、外国人被爆者特別立法をつくって救済する必要がある」と。剛速球が飛んで来た。筆者は大阪社会部から整理部に移ったあとで、取材・執筆はご法度だったが、特ダネだ、構うものか。高松支局に飛び込み、整理部のデスクに電話し、記事と写真を送稿。翌朝の総合3面トップを飾った。規則にうるさい今では考えられない良き時代だった。


この外相発言をフォローすべく、1カ月後に外務省北東アジア課に行き、担当者に聞いた。「大臣から指示があったでしょう」。「いいえ、何も」と表情も変えない。繰り返したが、同じ。そこで考えた。後援会を通じての面談だから、外相のリップサービスだったのか。愚鈍にも、「立法は国会の仕事。大臣の発言を言質に議員を動かすべきだったのか」と気づいたのは数年後。残念ながら大平さん亡き今、「幻の特別立法」となった。


だが今年、日中国交40周年記念番組を見て思い直した。大蔵官僚だった大平さんは戦前、中国で仕事をした経験から、日本がアジアのために可能なことを最大限行うことが日本の生存と安全に通じる大道だ、と語っていたという。大平さんは本気で外国人被爆者を救おうとしていたと信じる。となると、外務省は植民地被害は清算済みとの日韓合意を固守するため、担当者が嘘をついた可能性もある。当方の不明を恥じる。


取材した数多くの在韓被爆者は日本への恨みを抱いたまま逝った。そのなかで、韓国人被爆者運動をリードした辛泳洙さん(99年没)はこう嘆いた。「私たちの民族が統一され、力を持たないと、真の救済は勝ち取れないと思う」


日本政府に対する在韓被爆者援護の訴えは、日本の市民団体の支援もあって徐々に進展してきたが、まだ医療費の差別待遇などは残る。近年は北朝鮮の被爆者の実態も明らかになり、辛さんの言葉の重みは増している。


その北朝鮮の取材では、植民地支配の痕跡に直面した。


●国境の要塞跡に朝日新聞紙面


1999年、「100人の20世紀」シリーズで故金日成主席の足跡をたどり、平壌から白頭山、中朝国境の普天堡へ。彼の率いる部隊が1937年、日本に対して反撃し、「英雄」になったという前線の日の丸要塞跡だ。パルチザン部隊の襲撃による弾痕が生々しく保存される駐在所跡に入るなり、案内員が天井を指差した。見上げると、雨漏り防止に古新聞が貼ってある。題字を見れば、なんと「朝日新聞朝鮮西北版」だ。黄ばんだ「西部朝日」が50余年の日朝断絶の時間を告げているような気がした。ただ、あとで疑問も浮かんだ。当時の紙面が何十年ももつものだろうか、と。朝日記者へ、レトロ調の演出だったかもしれない。 


脱北少年の顔を今も思いだす。まる3日、一緒にいたのに一度も笑わなかった、その暗い顔を。1998年、中国東北部から国境沿いに北朝鮮情勢を取材のため、韓国の人道支援団体に同行した。中朝貿易の窓口である吉林省延辺朝鮮族自治州の図們で会ったのは顔が真っ黒にすすけた少年。州都・延吉の市場には脱北してきた何人もの子どもたちがもらい食いして命をつないでいた。少年は北朝鮮が自然災害で食糧難に陥るなか、家族は餓死し、一人で豆満江を渡ってきたという。団体と一緒に白頭山に行き、ボランティアの学生らのゲームの輪にもいるのだが、最後まで笑顔はなかった。


日本では敗戦後、上野の戦災孤児たちの悲惨さは語り草だが、北朝鮮ではそれが現実だった。分断と朝鮮戦争、そして冷戦の過酷な時代を経て独裁体制下の北朝鮮社会。日朝関係は拉致問題や核問題で停滞するが、日本が歴史の深いかかわりを持つ隣国と世界で唯一、国交がないという状態は打開されなければならない。北朝鮮の体制の責任は大きいが、あの少年に象徴される北の子どもたちが笑みを浮かべる日が早く来てほしいと祈る。彼らを救うことは東アジアの未来を創ることにつながるのではないか。


おだがわ こう 1942年生まれ

65年朝日新聞社入社 ソウル支局長

編集委員 韓国高麗大東北アジア経済経営研究所顧問を経て 聖学院大総合研究所特命教授 早稲田大日韓未来構築フォーラムを主宰 在韓被爆者問題市民会議代表 著書に『38度線・非武装地帯をあるく』『被爆韓国人』(編訳)『北朝鮮問題をどう解くか』(編著)など

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