コミュニケーション - 会員エッセー

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2014年05月 : ダイエー創業者・中内功さん 最後まで見続けた「消費者の顔」


安井 孝之

阪神大震災から2週間余りたった1995年2月2日、中内功さんが神戸・三宮のダイエー店を回った。それに同行した。


震災から2週間たち、中内さんは店に変化を期待したが、店舗の階段にはだらりと電気コードが垂れていた。とっさに雷が落ちた。


「2週間もたって、いつまで被災地気分で商売やっとるんや」


中内さんのアドレナリンが充満しているのを間近に見た。


止まっているエスカレーターを見ては、「なんで動かせないんだ」と担当者に詰め寄った。その脇を、ペットボトルに入った重い水を手に持ち、被災者たちが階段をのぼっていた。中内さんは客を満足させるにはどうしたらいいのかを常に考えていたのだろう。


震災後、中内さんは何度も神戸に入っていた。1回目は震災後3日目の1月20日。当時72歳の中内さんは壊れた神戸を見て、「壊れたものはしょうがない。でも残った店はとにかく開けろ。開けられない店も明かりをつけろ。明かりがなければ街は死んでしまう」と叫びながら、現場のダイエー社員を叱咤した。


戦時中、フィリピンで瀕死の重傷を負い、復員。焼け野原になった故郷の神戸を見た中内さんにとって、明かりもなく、食べ物も売れない街は再び見たくはなかったにちがいない。


水道、ガスが止まり閉店していた系列のハンバーガーショップでは「ハンバーガーしか売れんのか。おにぎりでも弁当でも売ったらどうだ」と目をむいた。


現場で気がついたことは改善を指示し、PDCAサイクルを回そうとしていた。何かを思いついたら、取材を受けていてもメモを取るメモ魔だった。胸ポケットには何本ものボールペンやラインマーカーが差し込まれていた。


阪神大震災後、ダイエーの業績は悪化し、業態の見直しをせざるを得なくなっていた。当時、75歳になっていた中内さんに、生意気にも「いまの消費者についていけますか」と聞いてみた。即座に返ってきた答えは「僕は40歳ぐらいのマネジャーよりも感覚は若い。好奇心もある」だった。


新しモノ好きで、自分の知らないコトやモノがあるとメモを忘れなかった。「時流に遅れてはならない。消費社会の未来は?」と自問自答を続けていたのだと思う。


ただ、こんな話を聞いたことがある。当時、神戸で起きた小学生殺傷事件の話になり、中内さんがこう言った。


「子どもは親に見せる顔、先生に見せる顔、友達に見せる顔、自分に見せる顔の4つを持っている。人を理解するのは難しい」


豊かさの中で格差が広がり、デフレも進んだ。一様でない消費者の欲望にどう応えるかが難しい時代に入っていた。中内さんも、消費者の本当の顔が見えにくくなっていたのかもしれない。


中内さんと最後に話したのは2004年10月13日の夜だった。ダイエーが自立再建を諦め、産業再生機構に支援を要請した夜。電話に出た中内さんは「いまは話せない」とひとこと言っただけで、電話を切った。


それ以来、「敗軍の将兵を語らず」を貫き、マスコミには沈黙を守った。中内さんが亡くなったのはそれから1年後のこと。もう一度ゆっくり話を聞いておきたかった。


(やすい・たかゆき 編集委員)

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