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2013年11月 : 「津波てんでんこ」の言葉を全国に広めた津波災害史研究者 山下文男さん


川井 博之

「僕自身が津波を甘くみていた。津波は本当に怖い」。2011年3月11日の東日本大震災発生から約1カ月後、病院のベッドの上でかすれた声を振り絞るように語った。山下さんは、陸前高田市の県立高田病院に入院中に大津波に襲われた。4階の病室でカーテンにしがみつき、首まで水に漬かりながら奇跡的に助かった。「『九死に一生を得る』とはこういうことか」。ベッドの上で照れ笑いしながら、津波にのまれた恐怖の瞬間を再現するかのように語ってくれた。


三陸海岸は、津波常襲地帯といわれる。明治の三陸大津波(1896年)、昭和の三陸大津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)と幾度となく大津波に襲われ、そのたびに多くの犠牲を払ってきた。10年ほど前、再び巨大津波が三陸海岸を襲う宮城県沖地震が「今後30年以内に99%の確率で起こる」との予測が公表された。津波防災企画の執筆を担当することになり、大船渡市三陸町綾里の自宅を訪ねたのが出会いだった。


山下さんは、三陸町綾里に生まれ、父親から津波の怖さを教えられて育った。明治三陸大津波で祖母ら身内9人を亡くし、自らも小学生時代に昭和三陸大津波に遭い、はだしで山へ逃げたという。


「僕の父は『てんでんこ』の権化のような人だった。父は子どもの手も引かず、1人で逃げてしまった。放っておかれた私も一目散に逃げた。運動会ではいつもビリだったが、この時は脇目もふらず必死で走った。こういうとき人間というのは騒ぎながら逃げたりしない。黙って走るのです」


津波防災について、あれこれと話を聞くが、最後は決まって「津波てんでんこ」に戻り、「最後の『こ』は了解し合うという意味。お互いが信頼し合って逃げる。人間には情があるが、犠牲者を1人でも少なくするには、情を断ち切り、心を鬼にして逃げなければならない」と熱っぽく説いた。


政党機関紙の記者で、文化部長や党出版局長などを務めた経歴を持つ。仕事の合間を縫って東京から古里に戻り、津波の被災地を歩いた。退職後は郷里に戻って津波の災害史研究に専念。津波の痕跡を訪ね、文献・史料をひもといた。綿密な調査は定評があり、学者からも一目置かれる存在だった。


酒席で、政党の昔話を聞こうとすると、うまくはぐらかされることが多かった。ところが、津波の話になると、話は止まらず、「学者連中は分かっていない」との言葉が口をついた。「津波の研究は仕事ではない。津波に恨みがあるからこそ津波の恐ろしさを伝えなければならない」。在野の研究者として、義務教育で津波、地震に関する知識、心得を教える授業を取り入れることや津波体験の教訓を伝える「津波伝承館」の建設を訴え続けた。その主張は時に権威と厳しく対立した。


山下さんは復興を見届けることなく2011年12月、87歳で亡くなった。昭和の大津波、チリ地震津波、平成の大津波と3度大きな津波に関わった数奇な人生だった。大震災から2年7カ月。復旧・復興の現状を見れば、おそらく「行政は何も分かっとらん」とほえたことだろう。津波の体験者としての使命感を心に秘め、古里、そして人間への深い愛情があった。いまあらためて一言一言をかみしめている。


かわい・ひろゆき▼岩手日報取締役東京支社長

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