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私が会った若き日の沢村貞子さん(村上 紀子)2011年10月

信念貫く 浅草の女の生き方

実は「若き日」の沢村さんに会ってはいない。ただ、沢村さんが60歳を過ぎたころからの20数年、取材の折に昔の話が出ることはよくあった。1977年、68歳の沢村さんが『私の浅草』で日本エッセイスト賞を受けたときは、「ひと」欄にと、代々木上原の自宅を訪ねると、若き日を、さらさらっと話してくださった。


女子大在学中に新築地劇団に所属して、左翼運動に精を出し、治安維持法で逮捕される。「まちがっているとは思わないのに、悪うござんしたって判を押すのがいやで」、通算2年近く獄中にあった。


釈放後は、「日活が入れてくれて」映画女優になる。小さな作品の主役に抜擢されたときのこと。経済自立のため、スターの夢はもたず職業として俳優を選んだ以上、一生仕事を続けるには脇役がいいと「計算して」、脇役女優を志願。「はっきり自分の道を決めた」。26歳の時だった。


「どうしてこんな私ができたのかしらって、生まれ育った明治の浅草を書いてみたのが、こんどの本なの」。江戸っ子らしい2倍速の早口は、いつも通りだ。「浅草の女はね、助け合いの情は濃いけど、口説きにくいとも言われた。金もなし地位もなしの庶民が、いやをいやと言い切るには、背筋をピンとのばして甘ったれずに生きなきゃなりませんものね」


私はずっと学芸部にいたが、沢村さんの映画の取材はしていない。最初の著書『貝のうた』に強くうたれて、沢村貞子という人の、考え方、生き方を、私自身がつぶさに知りたかったし、読者にも伝えたかった。


37歳までの自伝『貝のうた』には、私などにはさらりと話される「若き日」が、克明に描かれている。幼いときからの利発さで、ものをよく考え、決めれば一生懸命にやり通す。戦前の警察の取り調べ場面など、読むのさえ耐え難いほどなのに、信念をまげない。あの脇役志願の「計算」は正解で、姑といえば沢村、とも言われた名脇役は、81歳まで現役だった。


京都の新聞記者と恋に落ちるのは30代の末。どちらも別居中とはいえ、先方には子どももいたが、家族も仕事も捨てて、沢村さんの許へ。それに応えて、終生、彼を立て、彼に尽くす。妻子への仕送りや彼が始めた映画誌への支援のため、自分の仕事を増やして多忙を極めても、家の中はいつも小ぎれいに気持ちよく保ち、夕食は心をこめて手作りする。


いかに手早く、しかも楽しく家事をするか。その工夫も面白いので、折にふれては聞き、実際を見せてもらい、紙面に紹介した。ちょっとした暮らしの知恵のようでも、その奥には、ほかならぬ沢村さんが考えて決めた生き方、生活の思想とでもいえるものが感じられる。そこが私は好きだった。


女優を引退後、お二人は葉山の海が一望できる家に引っ越す。しばらくして伺うと、きりりと緊張感のあった以前の沢村さんは、ふっくらとおだやかな美しさに変わっていたが、夫のための料理とエッセイの執筆はつづいていた。還暦の年から書き始めて、主な本だけでも12冊になる。夫との50年を書き下ろした『老いの道づれ』で筆を置き、翌年87歳で亡くなる。聡明で志の人だった。


むらかみ・もとこ 元朝日新聞編集委員

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