コミュニケーション - 会員エッセー

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「私の取材余話」「旅の記憶」などのシリーズに分かれています。

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2011年05月 : 私が会った若き日の 児玉誉士夫

特ダネの宝庫 罪を憎んで人を憎まず
牧内 節男

児玉誉士夫との初対面は喧嘩から始まった。面会の約束はその日の朝10時であった。世田谷区等々力の児玉邸の応接間に通されたまま主が現れてこない。イライラしてきた。11時過ぎやっと顔を出した。私は言った。「10時だというから私はここに来た。恋人との待ち合わせでも30分待っても来なかったら私は帰る。人を待たせるとは失礼だ」「いや昨夜は遅かったから……」「理由にならない」「すまん事をした」と相手は謝った。昭和30年初めのころであったと記憶する。前年に起きた保全経済会事件の伊藤斗福についての取材であったと思う。私は30歳、児玉は44歳。私にははるかに年上に見えた。修羅場をくぐってきた腹の据わった人物と感じ、悪い印象はなかった。


このやり取りを隣の部屋で当時秘書、現東京スポ―ツ新聞社会長の太刀川恒夫さんが聞いていた。30年後太刀川さんとはスポニチの社長時代、越中島の同じ建物の同じフロアで仕事した。若気の至りと言うほかない。


それから数年後、連載記事の中で児玉誉士夫を「黒幕」と表現した。「小さな子どもがいる。子どもにかわいそうだから黒幕はやめてください」といわれた。「ああ、この人も人の親だな」と思った。同時に記事に思いやりが必要と反省した。


昭和38年8月、大阪社会部のデスクになった。ある日デスクの上に1枚のハガキがあった。児玉誉士夫からであった。「大阪で頑張ってください」と墨書きで簡単に書かれてあった。異動を知らせたわけでもないのに律義な人だと感じた。


昭和41年8月、東京本社社会部デスクに戻った。社会部の愛波健君と児玉邸を訪問する。特ダネのヒントをいくつか頂いた。ここには様々な人から頼みごとが来る。正式のルートでは解決できないものばかりである。“特ダネの宝庫”である。児玉誉士夫は玄洋社の頭山満に私淑し、特攻の生みの親、大西滝次郎中将と親交があった。私は頭山満をよく知る中野正剛の謦咳に接したこともあり、大西中将は尊敬する軍人である。世評ほど児玉誉士夫を“悪者”と思えずむしろ親近感を感じていた。ロッキード事件が起き、児玉誉士夫の名前がクローズアップされた。請われて社会部長になった。


その日(昭和51年3月12日)の夕刊の早番『夕刊ワイド』を見て驚いた。児玉邸の1、2階の設計図と鉄扉の屋敷蔵等の写真が3枚掲載されていた。私は「プライバシーの侵害だ。止めろ」と命じた。デスクの言い分は「写真は児玉宅が捜索を受けた日のものだし、設計図も児玉が増築家屋を登記せず脱税していた。それを示すものです」というものであった。


「犯罪者でもプライバシーはある。いくら特ダネ写真だといっても、なんでも載せればよいというものではない」。結局写真は1枚、設計図も『寝室』の説明が削られて掲載された。一応プライバシーが配慮される形となった。20年前に児玉誉士夫から「うちに小さい子どもがいる」と言われた言葉が頭の中にもあったのかもしれない。当時、児玉邸を見張る“児玉番”を他社が引き揚げたのちも残すなど、児玉誉士夫に手心を加えたことはなかった。


児玉誉士夫は昭和59年1月72歳で亡くなった。今、私は「罪を憎んで人を憎まず」とつぶやくほかない。


まきうち・せつお 元毎日新聞編集局長

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