2015年01月16日 16:00 〜 19:05 10階ホール
試写会 「KANO 1931海の向こうの甲子園」

申し込み締め切り

会見リポート

埋もれていた戦前の日台交流 高校野球を通じて描く

山根 健一 (愛媛新聞東京支社編集部長)

愛媛で生年を聞かれ「1969(昭和44)年です」と答えると、「松商(松山商高の愛称)が優勝した時やね」との答えがまま返ってくる。夏の甲子園決勝で松山商・井上明、三沢(青森)・太田幸司の両エースが延長18回を無失点で投げ抜き、再試合になったあの年だ。

 

事ほどさように野球王国・愛媛で松山商の存在は圧倒的だが、31(昭和6)年夏の甲子園で準優勝した嘉義農林(台湾)を率いた監督が、松山商初代監督の近藤兵太郎(1888~1966年)だったことを知る人は松山でも多くない。

 

日本統治時代の1930年前後の台湾を舞台に、ほぼ史実に沿って嘉農準優勝の軌跡を描いた「KANO~1931海の向こうの甲子園」。猛練習で選手を鍛えた近藤は日本人、漢民族、先住民族に分け隔てなく接し、運動能力の特性などに応じてチームを編成。地元有力者、メディアからの「日本人でなくても野球ができるのか」などの発言に、「民族と野球に何の関係があるか。この子たちは野球の大好きな球児だ」と一喝する。

 

台湾では作品に「植民地時代を美化している」との評もあったというが、映画を見れば製作陣の真意は分かる。意図的に歴史を美化するのではなく、近藤が歩んだ事実の持つ力。馬志翔監督(36)は「植民地だから民族や階級の問題はあったが、普段の人同士の付き合いではいいこともあったはず。KANOで描いたのはまさにこういうところだ」「過去から学び、力をもらってほしい」と力を込める。

 

スクリーンに戻る。「5年以上の野球経験がある素人」が演じた嘉農ナインのプレーは本物。台湾選手の慣れない日本語でのセリフには、自身の野球にかける熱い思いも重なる。エンドロールが終わった時、全力で体を動かしたくなる衝動が湧き上がってくるはずだ。


ゲスト / Guest

  • 試写会 「KANO 1931海の向こうの甲子園」

ページのTOPへ