2012年10月25日 15:00 〜 16:15 宴会場(9階)
著者と語る『テレビの日本語』 加藤昌男 元NHKアナウンサー

会見メモ

元NHKアナウンサーで、『テレビの日本語』(岩波新書)を著した加藤昌男氏が、テレビが伝えることばの変化や、災害報道で伝えるべきことなどについて話し、記者の質問に答えた。

司会 日本記者クラブ企画委員 露木茂(元フジテレビアナウンサー)

加藤氏が講師を務めるNHK放送研修センターのホームページ

http://www.nhk-cti.jp/


会見リポート

テレビの「ことば」が与える影響

斉藤 一也 (テレビ東京アナウンス部)

日本のテレビ放送が始まって間もなく60年。この間のテレビにおける「ことば」の変遷と現状に、アナウンサーとして、後進を指導する立場として、長く放送に携わってきた加藤昌男さんが考察を加える。


話は昨年の「3・11」を伝えた「ことば」から始まった。想定外の事態に直面する中で、事の重大さに比してテレビの「ことば」の乏しさが明らかになる。乏しいながらも抑制の効いた1週間が過ぎると、刺激的な口調や仰々しい字幕が踊る“饒舌な”テレビへと戻る過程を示す。


放送の現場に身を置く一人であり、震災報道に関わった当事者として、自戒を込めて振り返らざるを得ない指摘である。


歴史を振り返る中で、テレビのことばの変質の境目を80年代初頭とし、技術革新をその引き金のひとつと捉えたことが興味深い。撮影機材の小型化・編集機器の進化で高められた機動力と録音音質の向上は、「よそ行き」ではない「日常の」“ことば”を放送に乗せることにつながり、変質を促したとする。


テレビの「日常化」「大衆化」で産み出された価値は無論小さくないであろう。だが一方で硬軟織り交ざった雑多なことばを発信する饒舌なメディアに変容したことは、言語文化の価値にどれほどの影響を及ぼしたか。ことばは不変でないと認め寛容さをもってしても、「テレビの日本語」が「日本語」に与える影響を看過することは、少なくともテレビの中でことばを生業とする者として許されないものと感じる。


歴史を振り返った後に、加藤さんは「いざというとき、テレビは確かなことばで伝えられるのか?」と問いかける。高画質・高音質・大画面の時代に、ことばひとつで現実の出来事は絵空事になりうる。視聴者を「傍観者」にしないための確かなことばを紡ぎ出さなければ。



ゲスト / Guest

  • 加藤昌男 / Masao Kato

    日本 / Japan

    元NHKアナウンサー / Announcer, NHK

研究テーマ:著者と語る『テレビの日本語』(岩波新書)

ページのTOPへ