2007年04月16日 00:00 〜 00:00
中西進・奈良県立万葉文化館館長「古代日本語と外来文化」

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会見リポート

古代日本の国家形成と日本語

阪口 昭 (日本経済新聞出身)

大学の教室で聴くような地味なテーマなのに出席者は大勢だ。なぜだろう。日本語が歴史的に大きな変わり目にあると見て関心が高まっているためのようだ。情報機器の発達・普及がもたらすインパクトや今日の言葉の乱れが背景にある。

人は曲がり角に立つ時、流れをさかのぼって源流を見極めようとする。いわばDNAの検証である。中西氏の日本語探求は縄文時代にまでさかのぼる。狩猟と採集に生きたこの時代、われわれの祖先が発した言葉に、ネやチなどの一音節語がある。後に漢字で表し、ネは根や嶺、チは血や乳等に分化したものの、前者には共通して「堅牢で不動のもの」、後者には「ふしぎな活力」に対する感嘆の響きが込められた。縄文人の息遣いが残ったのだ。

縄文人の言葉が現代日本語の奥底に潜むとの見方には反論もある。特になぜか近年、「消滅する言語」の研究が盛んで、そのスジから、有史以前の日本列島で使われた言葉でいま生き残っているものは一つもない─との説が唱えられている。「とんでもない」と中西氏は言う。「すべて消滅しただって?一語ずつ証明し尽くされない限り、それは学説とは言えない」。この断固たる言辞には説得力があった。

以上の話は中西レクチャーのいわば序論に過ぎない。本論は縄文のあと有史時代に入ってから、稲作の導入、漢字の輸入、国家の形成、文化の創建が進む過程で日本語が姿を整え洗練されていく、その全体の変化の絡みを説く下りである。その様相はドラマに満ち、エキサイティングにも響いた。例えば「死ぬ」は「撓う(しなう)」に通じる、そしてそれは日本語のしなやかさを物語るものだ、といった説明、素敵である。

しかし中西学から序論ははずせない、と聴き終えて思った。中西学の魅力の源泉もここにある、と。

ゲスト / Guest

  • 中西進 / Susumu Nakanishi

    日本 / Japan

    奈良県立万葉文化館館長 / Director, Nara Prefecture complex of man'yo culture

研究テーマ:古代日本語と外来文化

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