2005年12月05日 00:00 〜 00:00
原彬久・東京国際大学教授「著者と語る」

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会見リポート

尊皇の政治家 吉田茂

太田 博夫 (個人会員(朝日新聞出身))

もう昔のことで、ほとんど同輩記者はいないが、私は駆け出し時代、「吉田番」を担当した。フルスピードの首相専用車について回り、大磯では、吉田邸門前の民家2階に陣取り、一日中首相の動静を見張ったものだった。最近の記者は首相に対しどこでも気軽に取材しているが、ワンマンといわれる吉田首相だけに当時の記者にとっては苦手な存在だった。

その点、原教授の話は興味深いもので次の点が話された。(1)吉田政権は戦後の混乱、占領軍のマッカーサーとの交渉など困難な道だったが、一貫して保守一党体制を確立し、日米安保体制の成立・樹立をはかり、通算7年2カ月に及ぶ長期にわたった。(2)吉田首相は「皇室すなわち国家」という考え方から、戦争責任から天皇を免罪し、天皇制維持に力をつくし、いわば尊皇の士であった。(3)吉田首相は米国の「再軍備」の要求を拒否し、民主的な「保安隊」を創設。これが自衛権を守る「自衛隊」になる。(4)吉田首相は高知県の名門の家で生まれ、貴族的な育ちであった。そのため “草の根”的な民衆とは違った。左翼的な思想には嫌悪感を抱き、それが「不逞の輩」「バカヤロー解散」発言になった。

晩年、私はめずらしく吉田首相に単独取材したことがある。米国へ帰ったマッカーサーが危篤状態になったので、朝日新聞社として吉田首相の追悼談話を準備したいという注文だった。吉田首相はかねてから単独取材を拒否する態度だったので、令嬢の麻生和子さんにお願いし、「マッカーサーのことだから…」とやっと承諾してもらった。

私は張り切って大磯の吉田邸に訪ねた。応接間に和服姿で出てきた吉田さんは開口一番「朝日新聞はまだ死んでいないマッカーサーを殺すつもりか」と一喝したものの、マッカーサーとの懐かしい想い出と切々たる追悼の言葉を語ってくれた。私の取材した最も緊張したひとときだった。

ゲスト / Guest

  • 原彬久 / Yoshihisa Hara

    東京国際大学教授 / Professor, Tokyo International University

研究テーマ:著者と語る 『吉田茂―尊皇の政治家―』

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